コラム

2016年5月「ごちそう様でした」

 熊本地震の被災者に向けて多くの支援が寄せられている。有事の際に助け合えるというのはとても素晴らしいことだと思う。しかし普段の日常においてはどうか?最近は「世のため人のため」という言葉をめっきり聞かなくなった。もちろん誰でも自分の生活のために働いている。しかしそれだけではなく「社会のために」「会社のために」という気持ちが昔はもっとあったのではないか。お金にならなくても自分が暮らす社会に役立つなら頑張る、例え条件の良い転職があっても自分を雇ってくれた会社に骨をうずめる…そんな人が昔はたくさんいたのではないか。
 しかし今は違う。勉強するのも働くのも自分が生き残るため、世のため人のためではない。

 どうしてそうなってしまったのか。一つにはみんな余裕がないというのが理由だろう。このご時世、自分と家族が無事に暮らすので精いっぱい、他の誰かのことを考えている場合ではない。
 またもう一つの理由は…特にこちらの方が大きいと思うが、社会や会社のために頑張っても見返りがないからだと思う。誰だって無償で頑張り続けるなどできない、お金じゃなくても何らかの形で報われなければ努力が馬鹿らしくなってしまう。

 それは医師や教師だって同じだ。患者さんや生徒たちの問題は勤務中だけに起こるわけではないから、必要によっては時間外・業務外の仕事もやむなし…これは聖職者なら本来当然のことだった。自宅で開業している医師は、診療時間外でも急患に対応した。教師は休日返上で部活の練習に付き合った。
 しかし近年は自宅以外の場所に病院を構え時間外は一切対応しない医師もいる。無償で部活の顧問をやるのはおかしいと申し立てた教師もいる。これまで責任感や義務感、あるいは愛情やサービス精神で働いていた人たちが「勤務時間しか働かない」「業務外のことはしない」「お金にならない仕事はしない」となったのは、やはり頑張るだけの報いがないからではないだろうか。

 もちろんサービス残業が前提で成り立つ社会が望ましいとは思わない。でもそんなふうに頑張ってくれていた人たちを放置しすぎた結果今の世の中があるように思う。確かにただ職場を回すだけなら時間内・業務内の仕事だけでもいい。でも発展を目指すのであればそれだけでは不十分、職員に良い意味で枠組みからはみ出す気持ちが必要だ。そしてそのためには、やはり報いがなければそんな頑張りはできないのである。このままでは多くの職場が、ひいては社会全体が停滞してしまう。

 『御恩と奉公』が成立しなくなって鎌倉幕府は崩壊した。今の日本にもそんな雰囲気を感じている人はきっと少なくないだろう。社会や会社のために頑張りたいと思う気持ち、そしてそんな人たちに報いてあげる気持ち…その両方が不足している。二十年前に大ヒットした楽曲『Tomorrow never knows』の中で「誰かのために生きてみたって」という歌詞が衝撃的だったが、今や誰かのために生きていない方が当たり前なのかもしれない。

 まあ嘆いていても始まらないので、大切なのは何をすべきかということ。世の中の雰囲気を変えるなんてそう簡単にできはしないが、私たちの身近なところから何かできることはないだろうか。
 そこで今回のコラムのタイトル、「ごちそう様でした」。まずはみなさん、飲食店で食事した時、ちゃんとこの言葉を店員さんに伝えるというのはどうだろう。確かにお金を出しているのはお客さんなので感謝を伝える必要はないのかもしれない。実際に転院さんに対して敬語も使わずやたら偉そうに接する輩もよく見かける。でもご馳走の語源が走り回って食材を集めたことからきているように、店員さんの頑張りがあって料理は用意されている。もちろんお金は払うのだけれど、そこにもう一つ、感謝の言葉をプラスしてほしい。「ごちそう様でした」「とてもおいしかったです」…きっと現場で働く転院さんにとっては少しでもそれが報いになるのではないだろうか。直接給料が増えるわけではなくても、お客さんのために、ひいては職場のために頑張ってみようと言う励みになるのではないだろうか。日本にはアメリカのようにチップで感謝を示す習慣がないので、せめて言葉で伝えようではないか。

 医師が幸福な職種だと思うのは、感謝の言葉をもらえる仕事だからだ。患者さんたちは治療費も支払ってくれた上でさらに「ありがとうございました」と言ってくれる。時間外でも業務外でも、そのおかげで頑張れたりする。

 無事に生活するだけで精一杯、頑張ったって見返りのない世の中だけど、まずは一言伝えてみよう。
 ごちそう様でした!

ごちそう様でした

(文:福場将太 写真:カヤコレ)

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