コラム

コラム2014年05月『★連載小説★Medical Wars 第2話』

Medical Wars (福場将太・著)
*この小説はフィクションです。

■第2話「百本の無駄骨」 (外科)

 5月である。先月から始まった新5年生のポリクリも2ヶ月目。第1週のゴールデンウイークは、溜まった疲れを癒すのにも、同時にようやく慣れてきた生活リズムを乱すのにも効果絶大。まあ5年生には夏休みがない分、しばらく連休というオアシスはお預け。年末まで歩きっぱなしの長い旅がいよいよ始まるわけだ。
 そんなこんなで第2週の月曜日、14班の6人は学生ロビーに集合していた。時刻は7時半、まあ向島の姿があったことに残り5人はとりあえず一安心。
「みんな、なんか久しぶりだね〜またよろしく!」
 相変わらず笑顔100パーセントはもちろん美唄。
「元気だね、美唄ちゃん。またよろしくね」
 と、長が眠そうに言う。正直早朝から彼女のハイテンションはちょっときつい。
「でも私、MJさんがちゃんと来てくれて安心しました。ちょっと感動!」
「いやあ…休もうかなとも思ったんだけど、徹夜のついでにそのまま来たんだ。だから俺、今ナチュラルハイ」
 ボサボサ頭に充血した目で向島が答える。
「いや、休もうと思っちゃダメですって」
 と、井沢が苦笑い。連休中はサッカー部の合宿に続いて恋人との旅行とまさに寝る暇もなかった彼であるが、そんなことをおくびにも出さず爽やかなポリクリモードになっているのはさすがだ。
「向島さん、ゴールデンウイークも音楽ですか?」
 と、同村。
「もちろん、ずっとスタジオ」
 平然と答えるアウトローな先輩に、同村は「そうですか」と少し羨望の眼差しを向ける…オイオイ。
「それでは、みなさんいいですか?」
 そこでまりかが少し声を張って言った。
「5月は外科系のポリクリが続きます。今週は整形外科、来週は心臓外科、最後の第4週は形成外科です。予定表を見た感じだと、オペの見学がメインかな」
「いよいよオペ室か…」
 同村がまた独り言のように言う。
「オペか〜、心臓外科だとバチスタとかあるのかな。なんかドラマみたい」
 と、美唄。すいません、この物語はそっち系じゃないんです。
「じゃあそろそろ行きましょう。まずは整形外科の医局に集合」
 まりかの言葉に従いみんなで歩き出す。
「長さんは産婦人科でもオペ見たんですよね?」
 井沢が尋ねる。
「そう、カイザーのね。いやあオペ室入るのって大変だぞ、まあ後でわかると思うけど」
「まりかちゃんは連休何やってたの?」
 美唄も隣を歩く班長に尋ねた。
「う〜ん、特に何も…実家に帰って、あとは外科の予習かな」
「さっすが〜!」
 6人は教育棟を出て病院に向かう。そこは休み明けで眠たいなんて許されない世界。気を引き締め直して頑張ってくれたまえ!特に今月はオペ室という名の戦場が部隊なのだから。

 医局での朝礼に参加した6人はさっそく手術見学を指示された。着替えて8番オペ室に集合…と相変わらず不親切な説明だったが、これはもうポリクリのお決まり。6人はオペ室が並ぶ病院6階に到着する。
「ここの更衣室でオペ着に着替えて中に入るんだ」
 と、井沢が他の班から仕入れた情報を披露する。
「さすが、井沢くんがいてくれて助かる」
「本当だな。俺なんか産婦人科の時わからなくてしばらく探し回ったよ」
 美唄と長が感心したように言った。
「じゃあまた出たところで集合ね」
 と、まりか。
 そこで6人は男女に分かれて更衣室に入る。非常に残念ではありますが、ここは男チームを追っていくことにしましょう。そこはフローリングの床にロッカーと棚が並ぶ8畳ほどの部屋。高い湿度の中、汗の臭いと消毒薬の臭いが絶妙なブレンドで漂っている。
「なんかプールの更衣室みたいだな。シャワーもあるし」
 同村が言う。井沢が脱いだ白衣を空いた棚に入れながら答えた。
「オペは結構汗かくんだろうな。ほら、そこに新しいオペ着が積んであるだろ、それ自由に使っていいんだ。んで、使い終わったやつはそっちのボックスに放り込む。サイズはMとLがあるから…長さんはLですかね」
「おいおい、確かにちょっと腹が出てきてるけどな」
 長が笑って上着を脱ぐ。その横で向島も黙々と着替える。同村も慌ててそれに続いた。
「教科書とかはここに置いていくのかな?」
「その方がいいぞ同村。前にオペ中に部屋の隅で教科書読んでて、メチャクチャ怒られた奴いるって聞いたから」
 井沢が答える。そのうちに本物のドクターたちも続々と更衣室を訪れてきた。4人は邪魔にならぬよう急いで着替えると、先ほど入ってきたのとは逆の出口に向かう。
 そこにはすでに着替えた女子2人が待っていた。
「よし、これで全員揃ったね」
 オペ着の美唄が微笑む。いつもと違うその姿に同村は一瞬ドキッとしたようだ。
 ここで説明しておくと、今彼らが着ている『オペ着』はよくドラマで手術の執刀医がまとっているような、目以外の部分を覆ったあの重厚な衣装ではない。薄いグレイの生地の半袖シャツに長ズボン、まるでパジャマのような正反対にラフな格好だ。それにマスクと使い捨てのビニールキャップ、無菌サンダルを履いて出来上がり。見学をする学生や直接手術をしないスタッフはこのスタイルが基本。ちなみにメスを握る人間はしっかり手洗いした後、この衣服の上に厳重にオペガウンと手袋、布地の防止やゴーグルなどを着用してあの姿となる。
「では、行きましょう」
 まりかが歩き出す。そして大きな自動ドア、その横にある流し台に到着する。そこでは外科医と思われる色黒の男性が険しい表情で黙々と自分の手と腕を洗っていた。6人もその邪魔にならぬよう端っこの方で手を洗う。壁に書いてあるマニュアルを見ながらとりあえず見よう見真似。まあメスを握るわけではないが、用心にこしたことはない。
「何だか…本格的って感じだな」
 ドラマで見る外科医のポーズで、井沢が洗った両腕を掲げて見せる。
「ちょっと、緊張してきた…俺」
 と、同村。その横で向島は大あくび。
「では、行きます」
 改めてそう言ったまりかを筆頭に、6人はついに自動ドアをくぐった。

 そこはまさに聖域だった。医療に携わる人間でなければけして入ることを許されない場所。2年生の時の人体解剖実習に続き、この手術見学は自分が医学部に来たことを実感させられる…学生にとっては2度目の衝撃だ。
 自動ドアの向こうに広がっていたのはまっすぐで広い道。その両側にオペ室の重いドアが立ち並んでいる。行き交うのはストレッチャーで運ばれる患者、オペに向かう医師、何かの特殊機材を押して歩く技師、忙しそうな看護師たち…。スタッフの全員がキャップとマスクを装着し、病棟とは異なり無駄話などは全く聞こえない。足音とストレッチャーのタイヤ音だけが響いている。まるでNASAか何かの研究所のようだ。外向が全く入らず、人工照明だけの薄暗い色調と冷んやりした空気がさらに独特な雰囲気を醸し出している。
 6人の笑顔もそこで完全に身を潜めた。しばしその場に立ち尽くす。
「…8番オペ室は奥の方ね」
 最初に言ったのはやはりまりかだった。彼女に続いて6人は縦一列で歩き出す。あの美唄でさえ、明るさや元気を振りまくことはなくその表情は神妙そのもの。彼女は一番最後に歩き出したため、向島の後ろの最後尾をゆっくり追う形になった。そんな彼女を音楽部先輩は時々振り返っている。
 そして辿り着いた8番のドア。
「あれ、自動で開かないな。ノブもないし…」
 そう言う同村の隣で、長が壁の下にある穴にサンダルを突っ込んだ。シュルル…と静かにそのドアが開く。
 6人が中に入るとすでに手術は始まっていた。おそらく執刀スタッフは朝一で朝礼前から準備をしていたのだろう。手術台の上には患者が仰向けに横たわり、3人のガウン姿の男がそれを囲んでいる。その中の1人が視線は動かさずに小声で言った。
「あ、ポリクリね。邪魔にならない所に立って見学してて」
 6人は黙って部屋の隅に移動する。
「ちょっと、そこ邪魔!」
 看護師の1人がきつい口調で井沢に言った。彼は「すいません」と言って飛び退く。病棟の白衣姿の看護師とは異なり、『オペ看』と呼ばれる彼女たちはとても恐い。いや、もちろん病棟にも恐い人はわんさかいますが、オペ室ではその張り詰めた空気と相まってさらに恐さが倍増する。マスクとキャップで隠されて、鋭い目しか見えないから余計だ。
「三橋、そこもっと開いて」
 執刀医が言った。三橋というのが先ほどポリクリに声をかけた医師らしい。
「はい、こうですか」
「そう、そのまま動かすなよ」
 患者は足の骨折の整復手術を受けている。室内には心拍を表すモニターの音が響く。
 同村はマスクの下で口を横一文字に結び、拳を握り締めオペに向かう医者たちの姿を見ていた。他の5人もそうだ。あの向島でさえ、あくびはおろか余所見をすることなくその場に立ち尽くしている。正直彼らの位置からは、主義を学ぼうにも術野はほとんど見えない。無影灯と呼ばれるライトの下に立つ男たちの背中が見えるだけだ。それでもまずはこの雰囲気を学ぶ…それだけで今日の課題は十分だろう。

 約3時間後、執刀医から「術式終了」の声がかかる。そこでようやく室内の空気が少し緩んだ。
「後は頼むぞ、三橋」
 そう言って執刀医が手術台から離れる。
「はい、わかりました」
 執刀医は出口まで行くと、そこで看護師に手伝ってもらいながらマスクとガウンを脱ぐ。別に甘えているわけではないですよ、これらは自分1人では脱着できない仕組みなのです。そして執刀医は早足で手術室を出て行った。おそらく次の仕事が待っているのだろう…6人はその後ろ姿に軽く頭を下げる。
「おーいポリクリ、縫合見せるからこっち来て」
 三橋が明るい声で言った。待ってましたとばかりに6人はそこで手術台に近づく。
「よろしくお願いします」
 そう口々に言う学生たちに、三橋は「じゃあよく見ててね」と皮膚縫合を披露する。全ての傷口が塞がれた頃、同村はようやく室内に小さくクラシック音楽が流れていたことに気付くのだった。

 午後2時、解放された6人は学生ロビーのソファで遅めの昼食にありついた。あまり時間もなかったため、病院の売店で売れ残ったパンが本日のランチ。
「結構疲れましたね」
 カレーパンをかじりながら同村が言う。アンパンと牛乳で長が答えた。
「そうだな、でも来週の心臓外科はきっともっときついぞ。10時間超えるオペとかもあるらしいから」
「学生がオペの助手に入ったりもするんですかね」
 美唄がクリームパンを手に不安そうに尋ねた。
「時々はあるみたいだぜ。まあ助手って言ってもやらせてもらえんのはせいぜい縫合の糸結びくらいだけどな」
 と、ジャムパンをかじる井沢が返す。彼は少し不機嫌そうに「くそ、さっきの看護婦め、偉そうに怒りやがって」と続けた。どうやらオペ室でのことを根に持っているらしい。そんな彼を同村は訝しげに見る。
「まあまあ井沢、気持ちはわかるよ。俺も産婦人科でオペ見学した時に怒られた。滅菌ガーゼに触っちゃって…いきなり不潔って怒鳴られたよ。結構経こんだな〜」
 長が笑って言う。美唄も笑顔で言った。
「オペ室は触っちゃいけないとことか多いから大変ですよね〜。MJさんも気をつけてくださいね」
 音楽部先輩は「はいはい」と答えながらチョコパンを流し込む。そして「俺ちょっとそこで寝るから」と奥のソファに横になってしまった。う〜ん、マイペース。そろそろ徹夜が響いてきたのだろうか。
「じゃあ後で起こしま〜す!次は何時だっけ、まりかちゃん」
「3時からまた手術見学。今度は椎間板ヘルニアね」
 班長はメロンパンを片手に手帳をめくる。
「ヘルニアかあ…。後でオペのレポート書かなくちゃいけないから、しっかり見ないとね。さっきのはほとんどわかんなかったし」
 明るい美唄にまりかが少しトーンを落として言う。
「しっかり見るのはいいけど、遠藤さん、気を付けてね」
「え、何を?」
「あのオペ着、結構胸のとこが開いてるから…あんまりかがむと覗かれちゃうよ?さっきも麻酔医のおじさんがやらしい目で見てたから」
 まりかがそう指摘した。もちろん怒っているわけではなく、むしろ悪戯っぽい表情だ。普段オシャレや色気を封印している印象の彼女だが、意外に女性としての意識は高いのかもしれない。あ、意外に、とは失礼致しました。
「え、やだ〜最低!」
 美唄も笑いながら返す。そんな様子に同村はドギマギし、井沢は「ああもう、教えるなよ秋月さん!」とおどけて見せる。どうやら機嫌は治ったらしい。長も声を出して笑い、その後ろで向島は高いびき…。
 う〜ん、有名人揃いとうたわれた14班、何やかんやでいいバランスなのかもね!午後からのオペ室も頑張ってちょうだい!

 そして訪れた水曜日、整形外科3日目。本日は手術見学はなく、午前中はカンファレンスルームで自習となっていた。とはいえ遊んでいなさいというほどポリクリは甘くない、先日の三橋医師から金曜日にミニテストをやることが伝えられたのだ。「去年の進級試験でもやってるから簡単でしょ?」と笑って言われたが、一度憶えたからといってそれを永遠に保存できるはずもない。14班諸君は机に向かい、それぞれ教科書と睨めっこしている。
「う〜ん、マジかよ、ミニテストなんて」
 と、井沢。長も「そんなに難しくはないとは言ってたけど…やっぱり結構忘れてるな」と頭を抱える。その隣で「向島さんはいなくて大丈夫なんですかね」と同村。そう、ミュージシャンは本日堂々の欠席である。
「あとで私がメールしておくよ。う〜ん、こういうふうに手をついたら起きるのがコレス骨折だっけ?」
 美唄が机の上で実演しながら言う。まりかが「そうだね。スミス骨折との違いに気を付けなきゃ」とコメント。
「ありがとうまりかちゃん。ああもう、バートン骨折とかジェファーソン骨折とか外人さんの名前ばっかで混乱しちゃう」
 美唄の嘆きもわかる。整形外科に限らずだが、医学には発見者の名前が付けられているパターンは病名・症状名から手技名まで数多く登場する。
「それぞれの骨折がどの部位のどんな骨折なのか、どんな症状や後遺症があるのか、どんな治療をするのかをまとめなくちゃいけないのよ。あと、好発年齢もね」
「俺、どうせ産婦人科になるのにこんなん憶えて意味あんのかなあ?他にも何万人に1人の病気とか、一生のうちで出会う確率ほとんどないのに」
 井沢も嘆く。まあこの悩みにはほとんどの医学生が一度は立ち止まると言っていい。教科書に並んだ星の数ほどの病名…そのほとんどは試験勉強で頭に詰め込む時しか出会うことはない。もっと出会う可能性の高い病気だけを整理してしっかり頭に入れた方が、よっぽど実用的で効率的…そう考えたくもなる。
「確かに…今頑張って頭に入れても、また忘れて国家試験の時に憶え直しだもんな。骨折だけでもこれだけあるのに…本当に全部の科が頭に入るのかな」
 と、同村。井沢がさらに言った。
「そんで国家試験が終わったらまた忘れて…結局最後は自分の専門の知識だけになるんだよ。オペ見学もいいけどさあ、ほとんど手術が見えないのは勘弁だよな。昨日も4時間突っ立ってるだけで、何も見えなかった」
 そこで長が「まさに骨折り損のくたびれもうけ」と呟く。当然の流れで「長さん、オヤジギャグ〜」と笑う美唄。
「ほらみんな、頑張らないと。骨折だけじゃないのよ。骨腫瘍だって名前と部位と好発年齢を憶えるんだから。それにレポート提出も金曜日だし」
 まりかがたしなめた。他の4人もそこで口をつぐみ、それぞれの記憶力との格闘を再開する。
 まあ勉学は学生の本分、無駄骨でも何でもとにかくやるしかないのです。

 時は流れて5月第3週。整形外科を突破した6人は次なる戦場・心臓外科に突入した。最初の月曜日は朝からいきなりオペ室、2チームに分かれて手術見学である。まずはこちら4番オペ室では同村・長・美唄が心臓の人工弁置換術に立ち会っている。整形外科での経験もあってオペ室への出入りにはそれなりに慣れてきた彼らであったが、ここではさらにガウンテクニックも経験することになる。そう、執刀医と同じあの重厚な装備で手術台に上がるのだ。
 その最初の1人に選ばれたのは我らが同村だった。ガウンテクニックは少しでも装着の手順を誤ると手袋やガウンが不潔になってしまう。その場合はまた廃棄して最初からやり直し…内臓を開いた患者に触れるのだから、それだけ手術に立つ人間には厳重な清潔操作が必要ということだ。同村もオペ看の厳しい指導の中、2着もガウンを無駄にしながらようやくその装着を完了した。そしてロケットに搭乗する宇宙飛行士さながら、彼は恐る恐る手術台に上がる。
「頑張って」
 美唄が後ろから声を掛けた。もちろん小声ではあったが当然それはオペ看の鋭い睨みを受けることとなり、長も「しっ」と指を立てた。彼女も慌ててマスクを押さえる…おそらくほとんど無意識だったのだろう。だがそんなせっかくの声援も届かないほど同村は緊張していた。頼むぞ、主人公!
「よし、次は正中切開」
 皮膚消毒の後、執刀医の藤岡が静かに言った。仰向けの患者の胸部は無影灯火の光の中、肌色というより白色に同村の目には映る。手術台に上がる、といっても彼がメスを握ることはない。彼の役目はただ1つ、目の前で繰り広げられる非日常…神の造形への人間の挑戦を心に刻み込むことのみだ。
 室内を沈黙と緊張が支配する。やがてメスを手渡して藤岡が言った。
「よし…バイタル変化ないな?」
 麻酔医が「大丈夫です」と答える。
「次、開胸機」
 藤岡はそれを受け取ると患者の開かれた胸にあてがう。そして静かに小さなハンドルを回した。キリキリ…と骨が動く音がする。再びメスを受け取った藤岡は更なる切開を加える。
「おい、ポリクリ、こっちきて見てみろ」
 藤岡の手技に集中していた同村は、一瞬遅れて自分が呼ばれていることに気付く。
「あ、はい」
 慌てて彼は一歩術野に近づき、藤岡の手の先を見た。そこには…これまで想像でしか知らなかったもの、何度も自分の胸に手を当てて感じていたものの正体があった。
 同村は言葉を失う。
 開かれた胸の真ん中に…激しく躍動するピンク色の塊。檻の中の猛獣よりも、何万馬力のマフラーよりも、ずっと凶暴で力強い生き物。
 …心臓。
 これが1人に1つずつ、体の中心に埋め込まれているのか。生命として誕生した瞬間から、一日も休むことなくこのポンプは働いているのか。脳や全身に血液を送り続けているのか。
 同村は身震いした。この生命力の塊が、自分も、手術台にいる医師たちも、全ての人間を動かしているのだ。疲れ知らずの心臓は、まるでこちらに飛び出してくるのではないかと思うほどに大きく脈打つ。決めゼリフがお得意の同村でさえ、今の感動を表す言葉が浮かばなかった。
「よし、いいか?じゃあ次はそっちのポリクリ2人、見てみろ」
 同村はそこでまた一瞬遅れて反応する。彼が退いた空間に長と美唄がそっと近づく。ガウンテクニックを施されていない彼らは手術台に上がるわけにはいかないが、乗り出せば十分術野は視覚に入る。
「よし、1人ずつ注意して覗いてみろ」
 藤岡に導かれまずは長がそれを見た。いつも年上の余裕と包容力で場を和ませるムードメーカーの長…しかし今彼の表情にはそんなものは微塵もない。感情が吹き飛ばされたように、その2つの目を見開いている。そこにはただ驚愕の色だけがあった。
「よし…いいか?じゃあ次」
 長と入れ替わりに美唄がそこに入る。彼女もまた、いつもの笑顔も元気も吹き飛ばされ、瞬きを忘れてそれに見入った。その隣で同村もまた術野を見る。
「すごいだろう。いいかポリクリ、一生これを忘れんなよ」
 藤岡が言う。その言葉に導かれるように、美唄がさらに一歩踏み込もうとした。術野を見ていた同村は彼女の服が他の医師に当たりそうになるのに気付く。
「危ない、遠藤さん!」
 彼女の肩を掴み、なんとかその接触を防ぐ。美唄ははっとして後ろに退いた。
「あ、ごめんなさい!」
 再びオペ看の睨みが彼女に向く。美唄は長と共に部屋の隅に戻った。泣きそうな顔の彼女に、長は小声で「気をつけなきゃ」と囁く。
「よし…じゃあ始めるぞ」
 そんなことは気にも留めない感じで藤岡が言った。いよいよ弁置換手術が始まる…しかし、同村はここで手術台を降りなければならなかった。そう…彼女に触れてしまったからだ。そこに立つ人間は完全に清潔でなくてはならない…オペ着とはいえ不潔対象に触れた同村もまた不潔になってしまったのである。
「ごめんね同村くん。私、夢中になっちゃって、本当にごめんね」
 今にも泣きそうに言う美唄に、同村は「いや、気にしないで」と声をかける。彼の心は今は美唄よりも、あの心臓の光景でいっぱいだった。藤岡の言葉ではないが、きっと一生の記憶になるであろうことを彼は確信した。そう、これがポリクリの醍醐味…教科書や授業では絶対に味わえない感覚だ。
 部屋の隅に引っ込んだ同村に、先ほどのオペ看が声をかける。
「新しいガウン持ってきてあげるから、それ脱いで早く着替えなさい」
 それは彼女の優しさだったのか、それともオペ室で泣かれてはたまったものではないと思ったのか、とにかく次は一発で着用に成功し同村は再び宇宙に打ち上げられるのであった。

 さてこちらは第5オペ室。井沢・向島・まりかが見学に入っている。すでに執刀開始から5時間経過。当初井沢がガウン着用にて手術台に上がっていたが、今はもう降ろされている。別に不潔になってしまったわけではない。同村たちが心臓の生命力に感動していたのに対し、壁一枚隔てたこちらには正反対の空気が立ち込めていた。
 胸部大動脈瘤に対して予定された人工血管置換術は、もう1時間も中断されている。執刀医や助手医たちも手術台から離れ、何やら小声で話をするばかり。その表情から何らかのトラブルが起こっていることは明らかであった。室内にはモニターの音が冷たく響いている。部屋の住みで、井沢は小声でまりかに問う。
「何か…あったんだね」
「多分…様態が悪くなったんじゃないかな。あるいは想定外の何かが…」
 彼女も消えそうな声で答えた。いくら勉強のためとはいえ、この状況で学生が質問できるはずもない。向島はただ無言でモニターを見つめていた。
 …さらに1時間が経過する。そこでポリクリは退室を命じられた。外科医たちは依然神妙な面持ちで何やら相談を続けている。井沢お得意のポリクリモードをもってしても、とても話しかけられそうにない。
「あの、ありがとうございました」
 ひとまず井沢は麻酔医の女性に声をかけた。麻酔医は大抵1つの手術に1人、他のスタッフとは異なり、ブルーのオペ着だから人目でわかる。執刀医が方針を決定するまで、彼女は患者の現状を維持するしかない。
「あ、お疲れ」
 彼女は優しく微笑んだ。まりかと向島も井沢の横で頭を下げる。
「ずっと立ちっぱなしで疲れたでしょ。ゆっくり休んで」
 マスクとキャップではっきりとはわからないが、まだあどけなさの残る若い女医だ。
「あの…この手術はどうなるんですか?」
 まりかがそう尋ねる。女麻酔医は「多分このまま中止だと思うけど…」と前置きしてから、笑顔を消して答えた。
「多分患者さんが目覚めることは…もうないと思う」

 午後4時、本日のポリクリ終了を告げられた彼らは学生ロビーにいた。時刻としては早上がりだが、疲労は十分だった。そのまま帰宅した向島を除き、5人はソファで今日の感想を語り合っていた。
「そうか…そんな感じだったのか」
 井沢の話に同村がそう答える。その隣でまりかも浮かない顔…無理もない。
「その患者さんだって…勇気を出して手術を受ける決意をしたんだろうな、病気を治すために。それが麻酔で眠って、もうそのままなんて…」
 同村のその言葉に、長も深く頷いた。
「全部がうまくいくわけじゃないってわかってても…目の当たりにすると考えちゃうよな。家族だって笑顔で患者さんが出てくるのを待ってたんだろうし」
「…切ないですね」
 そう言って井沢がテーブルの足に無数に結ばれた糸を触る。この時期になると、手術見学を経験した班も増えてくる。するとこの糸結びの練習が所構わず行なわれるようになるのだ。まるでおみくじのように、学生ロビーの椅子やテーブルのあちこちに糸が結ばれている。
「本当に…辛いね」
 と、美唄。オペ室の一件以来彼女は元気がない。そしてその言葉を最後にその場には沈黙が訪れた。話すことがないのなら帰ってもよいのだが…彼らはそこでボンヤリした。きっと帰ってもボンヤリしてしまうことを全員がわかっていたのだろう。
 …いいんじゃないかい?ゆっくり落ち込んだり、ボンヤリしたりできるのも学生の特権。プロになったら立ち止まってなんかいられないんだから。あの外科医たちだって、今日の手術の結果がどうであれ明日にはまたメスを握る。戦場離脱は許されない世界なのだ。

 10分ほど後、まりかが「明日は10時の聴診器のクルズスから始まります」と沈黙を破った。長も「10時からだから久しぶりに朝寝坊できるな」と笑い、その場には幾分の明るさが戻る。
「おーっし、帰るか!」
 井沢が大きく伸びをして立ち上がり、他の4人も続いた。
 ロッカールームに向かう中、美唄が同村に「今日は本当にごめんね」とまた謝った。同村は「そんな、気にしてないって」と返し、彼女の落ち込みを心配した。まあそれはいささか考えすぎだったようで、一緒に帰る地下鉄ではまた元気100パーセントの美唄が復活していた。…まあ元気すぎて他の乗客から顰蹙を買っていたが、それはいつものご愛嬌。

 翌日の聴診器のクルズス、ここで活躍したのは意外にも向島…いや、MJKだった。使用したのは人間の上半身のみのマネキン。それはパソコンに接続され、数々の心臓や肺の音を流すことができる。パソコンを操るのは、このクルズスを担当する森広医師。
「はい、みなさんじゃあ順番にマネキンに聴診器を当ててください。今から心臓疾患の時の心音を流すから、みなさんで何の疾患か当ててください。診察時間は1分間ね」
 マネキンに聴診器を当てるのはやや滑稽である。しかしみなさんも心臓マッサージや人工呼吸の練習マネキンを見たことあるでしょう。医学生にとってマネキンは偉大な師なのです。しかもこいつは聴診器を当てる部位によってちゃんと聴こえ方も変わるという優れもの。
 6人は順番に聴診器を当てるがなかなか診断までは至らない。しかし最後に聴診器を握った向島は一発で心臓のどの弁が障害されているのかを見抜いたのだ。
「お見事!」
 森広が舌鼓を打つ。向島はあのゲームセンターでぬいぐるみを取った時のように、少し得意げな顔を見せる。
「じゃあこれはどうかな?」
 森広はその後もいくつかの問題を出したが、向島は悉く聴き分けた。診断名まで全て正解したわけではないが、どの音が亢進している、どの音が遅れているなどを向島が指摘することで、まりかがそこに診断をつけた。この2人の意外なコンビネーションによって14班は見事全問をクリアしたのだ。
「いや、すごいね〜。優秀な班だ」
 嬉しそうな森広。蚊帳の外となった他4人のメンバーの中で最も驚いていたのは井沢だった。
「む、向島さん、どうしてわかるんですか?」
「ん?まあ…聴き分けたりリズム感じたりは日常茶飯事だから」
 さすが音楽家の耳!
 こうしてポリクリをサボりがちの問題児は、見事汚名返上を果たしたのであった。しまいには森広を差し置いて他メンバーに聴診のコツまでレクチャーし始める始末。そんなこんなで明るさを取り戻した14班なのでありました。

 …まあ栄光の日々は短いもの。その後水・木曜日に連続遅刻をしたことで、ミュージシャンの名は再び地に落ちていくのです。

「ほんとにMJさんには困っちゃうよね。遅刻して来ても、平然としてるんだもん」
 心臓外科が無事終わった金曜日。帰りの地下鉄で美唄はそう笑った。
「井沢くんとか本当に呆れた顔してたね。いや、呆れたっていうより怒ってたかな?もうMJさん、せっかく聴診器で活躍したのにね」
「まあね…」
 隣の吊り革に手をかけながら、同村が言う。無口だった彼がこの美唄との帰り道では自然に話す…これも彼女の魅力のおかげだろうか。
「でも向島さんの聴診の腕は本当にすごかった。俺なんか何回聴いても違いがわかんなかったのに」
「まあMJさんは人生でヘッドホン付けてる時間の方が長いような人だから」
「でもそう考えると、あの人の音楽への努力も…満更無駄じゃないよね」
「そりゃそうだよ」
 そこで美唄は大きな瞳で同村を見た。
「何だって無駄じゃないよ。同村くんだってさあ…産婦人科でレポート誉められたじゃん。あれだって執筆頑張ってきたおかげでしょ?」
「まあ、そうかな…」
 彼女の視線が真っ直ぐすぎて同村はまたドギマギする。
「無駄なことなんかない、私はそう思ってる。…あ、もうすぐ駅だね。今日はちょっと買い物したいから先にここで降りるね」
 そこは新宿4丁目の駅。買い物に付き合うよ、なんて口にする度胸はもちろん同村にはない。
「じゃあお疲れ、遠藤さん。よい週末をね」
「うん、同村くんもね。じゃあまた来週!」
 そう言うと美唄はドアの方に向かう。やがてホームに出た美唄は、窓の外から同村に大きく手を振る。
 …嬉しいやら恥ずかしいやら、未だにそれには応えられない同村であった。

 アパートへの帰り道。同村はいつものコンビニに立ち寄る。特に週末の予定もない彼はしばらくそこで立ち読みを楽しんだ。そしてまた「無駄じゃない…か」と誰にでもなく独り言を言う。
 30分ほどしたところで雑誌とカップラーメンを買って店を出る。するとその瞬間、大きなサイレンの音が聞こえてきた。これは…消防車の音だ。見ると交差点の向こうから赤い車体が近づいてくる。
 同村は慌てて周囲を見渡す…が、特に火の手が上がっている様子はない。もっと遠方の火事だろうか?しかしそんな予想を裏切り、消防車は彼の目の前で止まるとあの銀色の服装の男たちが数名降りてきた。
「あの、御苑3丁目のアキナーマートというのはこちらですか?」
 隊員の男性に尋ねられ、同村は「はい」と答える。それはまさに今彼が買い物したコンビニ、詳しい住所も確認するがやはり間違いはない。
「う〜ん、火事の様子はないですね…。ちょっとすいません」
 男性はコンビニに入り、店員に何やら確認している。その後店内やコンビニ周辺を見回ったりもしていた。同村は多少の興味をおぼえそれを見守る。結局15分ほどで隊員たちは消防車に戻ってきた。
「あの…大丈夫だったんですか?」
 先ほど声をかけてきた隊員に同村は尋ねた。男性は笑って応える。
「いやあ、どうやら間違い…というかイタズラだったようです。火の手はありません、ご安心を」
「はあ…そうですか」
 そこで同村は何となくもう1つ尋ねてみた。
「あの…こういう出動ってよくあるんですか?」
「え?ああ、無駄骨の出動ですか」
 そこで男性は呆れ笑いで言った。
「ええ、しょっちゅうですよ。イタズラも多いし、勘違いの通報も多いです。前なんか暗い家の窓にチラチラ炎が揺れているってんで急行したら、クリスマスツリーの明かりでした。困ったもんです」
「骨折り損が多いんですね。それでも通報があればこうやって駆けつけるんですよね」
「はいもちろん。行って見なきゃ無駄かどうかはわかりませんし、それに万が一火事だったら一分一秒の遅れが人命に関わります。まあくたびれ儲けも多いですが、それが私らの仕事ですから。万が一を考えたら、無駄骨の百本や二百本惜しんでられませんよ、ハハ」
 そう言うと男性は深呼吸した。
「では、戻って無事だったと報告しますので失礼します。お騒がせしました」
 男性が乗り込んだ消防車は、今度はサイレンを鳴らさずにさっそうと去っていく。それを見送る同村…みなさんのご想像の通り、これは彼の心を解きほぐした出来事でした。

 日曜日の夜、明日からの実習を前に同村はテンションを高めていた。鍋でラーメンを作りながら、彼は一昨日の消防隊員の言葉を思い出す。
 …『万が一を考えたら、無駄骨の百本や二百本を惜しんでられない』
 そう、そうなんだ。
 俺らが今やってる勉強も、実習も、全部無駄じゃないんだ。確かに一生出会わないような病気もたくさん頭に詰め込んでる…でもそれだってもしかしたら出会うかもしれない。万が一のその時に知識がなければ、救える患者を救えないかもしれない。それを考えたら無駄骨の百本や二百本…いやそれでも足りないくらいだ。惜しんでどうする!
 試験が終わったら忘れてしまう知識だって、少しは頭の片隅に残ってる。ほとんど見えなかったオペ見学だって、それでも何かは学ぶことがある。もしかしたら…それがいつか役立つかもしれないんだ。
 そんな考えが彼を突き動かす。
「こうやって手をついたらコレス骨折…」
 同村は1人キッチンで整形外科の復習を始めた。単純だねえ、でもまあそれが君の良い所でしょう。それでポリクリに身が入るのなら何よりだ。
「そして高い所から落ちた時の骨折が…」
 そう言いながらジャンプする同村の手が鍋に当たった。そう、高い所から落ちたのは鍋であった。
「うわあああ!」
 孤独な叫びが上がる。1人ではしゃいで1人で怪我して…まあこんなことってありますよね。
 腹部に熱湯をかぶった同村は急いでシャワーで冷水を当てる。早期対処のおかげで痛みはすぐに和らいだ。しかし、火傷をなめてはいけません。日付が変わって月曜日、傷口は明け方からヒリヒリと傷み始めた。
 せっかくテンションを上げたのに…同村は泣く泣く班長に通院のため遅れるというメールをすることとなった。

 通院先はもちろんすずらん医大病院。その診察室で同村は医者に言われるままにシャツを脱いだ。
「ありゃりゃ、決行ひどいね。痛いでしょう」
 同村は力なく「はい」と答える。そこで医者は少し微笑み、「ここの学生さんなんですよね?」と訊いた。
「はい…そうですけど」
「うちは大学病院なので学生の見学もあるんですが、よろしいですか?」
「…え、はい」
 改めて確認されて戸惑う同村。そこで医者は「ポリクリさん、どうぞ」と呼びかける。すると後ろのドアが開き、白衣の若者が数名診察室に入ってきた。
「よろしくお願いしまーす」
 もちろん入ってきたのは14班の5人、そう、今日から始まるのは形成外科。
「え?先生、ちょっと…」
「いいですか、みなさん。熱傷の診断で大切なのは深さと広さです。皮膚のどの深さまで及んでいるか、体表面積のどれくらいに広がっているか…」
 慌てる同村を横目に医者は講義を続ける。
「その前にまずは消毒だね。せっかくだから誰かやってみます?」
 美唄が「私やりまーす!」と笑顔100パーセント、この時ばかりはさすがに恐い。長も「俺も俺も」と前に出る。その後ろにまたまた呆れ顔の井沢、その横には微笑む向島とまりかが並ぶ。
「ちょ、ちょっと先生!」
「覚悟決めなさい同村先生。これで実習は出席にしてあげるから。あ、ちなみに俺は学生指導の氏家ね、よろしく」
「そんな〜」
 嘆きの同村の前に、消毒ガーゼを構えた美唄が立つ。
「ね、同村くん、無駄なことなんかないでしょ?火傷だって役立つんだから。はい、お腹出して」

 その後診察室からは待合室が驚くほどの叫びが上がったのでありました。ではではそんなこんなで、5月の物語もこれにておしまいです。しっかり無駄骨を折ってください、14班諸君!

6月、血液内科編に続く!

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