コラム

コラム2014年08月「★連載小説★Medical Wars 第5話」

Medical Wars (福場将太・著)
*この小説はフィクションです。

■第5話「希望の旋律」 (緩和ケア病棟)

1

 さてさて夏真っ盛りの8月。新宿の街は直射日光とアスファルトから立ち込める熱気でまさに蒸し釜状態。こんな季節には都会の喧騒を離れ、青い海と白い砂浜でひと夏の思い出を…とはいかないのが哀しきポリクリ生。他の学年と異なり彼らに夏休みはない。5年生しかいない教育棟から病院へ通う日々が続いている。
 我らが14班はといえば、未だ飲み会開催には至らなかったが実習においてはかなり仲が良い感じ。むしろ今の彼らにアルコールは無用かもしれない。学生ロビーで、食堂で、実習合間のカンファレンスルームで…彼らは十分会話に花を咲かせていた。
 まあ向島は相変わらずいたりいなかったりするのだが、いる時は美唄のおかげもあってみんなに溶け込めていた。もともと彼も人と触れ合うのが好きなのだろう。冗談を言ったり、音楽の話をしたり、時には気前よくジュースなどをおごってくれることもあった。美唄以外の4人もいつしかそんな彼を受け入れつつあった。確かにサボりも多いが、6人が揃わないと成立しない場面にはちゃんと出席してくれていた。それに、向島抜きの同級生5人だから通じる話題で盛り上がることもある。留年した先輩として後輩の輪に水を差してはいけない…そんな気遣いがどこまで彼にあったかはわからないが、サボりもその意味で時には残り5人の憩いに役立っていた。

 8月第2週の月曜日。今週6人が回るのは消化器内科である。初日の実習はなんといきなり教授回診。ただしここでのそれはこれまで見てきたような大名行列ではなかった。もちろん各主治医が教授に担当患者を説明することに変わりはないが、最初から最後まで医局員全員が一斉に歩くことはない。この科では担当患者の診察の時だけ主治医がその場に同席する、という進化した方式がとられていた。つまり全ての患者を回るのは教授と見学のポリクリ生のみ。まさに皇帝陛下と下級兵士の珍道中だ。
 さて18階の病棟、6人は教授の後ろに従っている。教授の名は小俣、年の頃は45歳とまだ若い。黒髪をオールバックでビッチリ固めたダンディズムに、理知と意欲を漂わせている。本学出身者でない彼が消化器内科の教授に招かれたのは3年前。起こした革命はもちろん教授回診の方式変更だけではない。彼の尽力により緩和ケア病棟がこのフロアの一角に新設されたことは、同村たち学生の耳にも届いていた。
 小俣の回診の足取りはとても力強い。気品と自信に満ちていて、次々と患者を回っていくその姿はまさに圧巻。6人は教授の邪魔にならぬよう、そしてその言葉を聞き逃さぬよう必死に食らいついていく。やがてその回診は緩和ケア病棟にさしかかった。
 消化器内科には、現代において深刻な病のひとつである癌患者も多く存在する。特に緩和ケア病棟にはもはや積極的治療はできないが、痛みや苦しみを和らげながらここで最期の時を過ごす患者もいる。
「次の病室の田倉さんは、スキルスの末期。あと…半年くらいかな。もう本人に告知済み」
 主治医の幕羽が小声で6人に説明した。教授はそれを確認するとノックしてその個室に入る。幕羽に続き、同村たちも静かに従った。
「どうですか田倉さん、お加減は?」
 小俣は優しい物言いでベッドに近づく。そこにいる患者・田倉明日香は20代中ごろの女性…まだ若い。自分たちとほとんど変わらないことに6人はまず驚いた。癌の末期、と聞いて少なからずの年配を想像していたのだ。窓には厚いカーテンが閉められており、室内は午前中だというのにやや薄暗い。小さなテーブルの上に置かれたCDラジカセからなにやらピアノ曲が流れている。
「あ、おはようございます小俣先生」
 明日香はそう言って力ない笑顔を見せる。そして疲労を誤魔化すかのように「すいません、ちょっとウトウトしちゃってて」と付け加えた。
「いえ、構いませんよ。体の調子はどうですか?」
「そんなに変わりはありません。…左手がまたちょっと動かしづらくなった気がしますけど」
「…そうですか。痛みはいかがです?」
「特に…大丈夫です」
 明日香は明瞭に答える。薬の副作用で髪が抜けてしまったのか、頭に赤いニットの帽子をかぶっていた。少しこけた頬は透き通るように白く、小柄で華奢な身体は白い室内に埋もれてしまいそうなほど儚い。そんな彼女を6人はただ黙って見つめていた。
 何も…言えるわけがない。
「今のところ、痛みは先週と同じ量のオピオイドでコントロールできています」
 カルテを示しながら幕羽が小俣に言った。教授は頷くと視線を彼女に戻し、「お薬もこのままでよさそうですね」と伝える。
「わかりました」
 と、小さな返答。そして数秒の沈黙。
 …涼しさを同村は感じた。悲しい涼しさを。一枚窓を隔てた向こうには真夏の光線が降り注いでいるというのに。
「…それではまた、お大事に」
 小俣が沈黙を破った。明日香は「はい、ありがとうございました」と頭を下げる。スタスタと部屋を出ていく教授に主治医が続き、その後学生も礼をして退室した。6人は廊下でお互いの表情を確認すると、無言で頷き合う。可愛そう、どうしようもないんだ、きついね、今は何も言うなよ…そんないくつもの気持ちのアイコンタクトだった。
 そしてすぐにまた次の患者の説明が始まり、教授はその病室に歩き出す。同村たちも続いたが…向島だけは明日香の病室の前に立ち止まったままだ。どうやら、ドアのネームプレートを確認しているらしい。
「どうしたんですか?向島さん、行きますよ」
 気付いた同村が小声で呼ぶ。
「いや…なんでもない」
 そう言うと、彼は足早に一行に追いついた。

 回診の後、午前の実習から解放された彼らは学生ロビーでコンビニ弁当を食べていた。正直そんなに食が進む心境ではない。しかしショックで食事が喉を通らないようでは医師という仕事は務まらない。先の実習で彼らもそれを学んでいる。
「でも…あの患者さん、言葉は悪いかもしれないですけど、結構平然としてましたね」
 と、井沢。話題はやはりあの田倉明日香のことだ。
「そうだね。俺がもしあと半年の命だったら…もっと荒れて無茶苦茶やってるかもな」
 長が答える。同村も箸を止めて言った。
「達観…ってやつなのかな。俺たちとほとんど同じくらいの年齢なのに…人生って様々だなあっていうか、なんかうまく言えないですけど」
 そこでまりかも口を開く。
「でも、安易に不幸とか思っちゃいけないんだよ…きっと。あれがあの人の人生なんだから、周りの人間がそれを評価しちゃいけないのよ」
 眼鏡の奥の瞳に揺るがない信念を灯し、彼女は語調を強める。
「私はああやって笑顔で回診に応じる田倉さん…立派だって思った」
「そうか…そうだね」
 同村も頷いて思いをはせる。
 …そう、あの患者は立派だ。もしかしたら彼女はみんなが退室した後で泣き崩れていたのかもしれない。たとえそうであっても、せめて人前でだけでも強くあろうとしていたのなら…彼女は立派だ。
「本当に、人間いつどうなるかわからないよな。長さんもバイク通学気をつけてくださいよ!」
 と、井沢が場を和ませる。長も「ありがと…そうだな。タバコも早くやめないと」と笑った。
「でも…運命って…あるのかもしれないね」
 いつになく無口だった美唄が、そこで独り言のように呟く。
「もちろん生まれた時から人生が決まってるなんて思わないけど…なんか運命って決まってる気がするな」
 今日の美唄は妙に哲学的だ。同村は意外だった。いつもの美唄なら、希望や奇跡、そして大好きな『可能性』という言葉を使って、未来を明るく捉えようとすると思ったからだ。運命という言葉で、過酷な現実を受け入れようとする発言は…何か彼女のキャラクターに合わない気がした。
 そういえばこの2人、毎日同じ地下鉄で帰っているのに一向に進展しない。その気がないのか、度胸がないのか、それとも班の雰囲気を気遣っているのか…。う〜ん、作者ながらに気になるところ。ねえ同村くん、その辺りどうなのよ?
「アハハ、なんかわかんなくなっちゃった」
 そこで美唄はいつもの笑顔を見せる。
「でも、私もあんなふうに強くなれたらな」
「強い、か…」
 弁当を早々にたいらげ、ソファで横になっていた向島がそう言ってむっくり体を起こす。
「僕には…そんなに強く見えなかったな」
 向島は視線を虚空に向けたまま続けた。
「あの病室でかかってた曲、知ってる?あれはリストの『孤独の中の神の祝福』。絶望の中にいる人が、それでも祝福を祈る曲さ」
 向島の音楽ウンチクはいつものことだが、今回はどこか様相が違う。和みかけた雰囲気がまた少したじろぐ。
「あと半年の命の中、どんな気持ちで聴いていたんだろう…」
 向島はそう言うと、立ち上がってそのまま出口に向かう。
「向島さん、午後は2時から検査室で内視鏡の見学です!」
 班長の言葉にも、その後呼びかけた美唄の声にも反応せず、彼は学生ロビーを出ていった。

 18階ナースステーション、向島はカルテを読んでいた。ポリクリ生にはレポート作成などの都合上、診療記録に触れる権利が与えられている。もちろん、その内容を外部にもらすことは厳禁。
 彼はスタッフの邪魔にならない位置で静かにそのカルテ…そう、田倉明日香の記録に目を通していた。その瞳には驚くほどに真剣の色が浮かんでいる。
 しばらくしてカルテを棚に戻すと、今度は緩和ケア病棟へと歩き出す。彼女の病室の方角だ。そんな彼の後ろ姿に、通りかかった幕羽は少し不安そうな視線を注いでいた。

「すいません、失礼します」
 軽くノックしてから向島は病室に入った。窓はやはりカーテンで閉ざされ、室内は薄暗い。明日香は何をするでもなく半身を起こしてベッドにいた。そこにはまたピアノ曲が流れている。彼女の一瞥を受け、向島は一礼した。
「どうも、学生の向島です。今朝、小俣教授と一緒に回診に来ました」
「あ、どうも…。何か?」
 明日香は小さく言った。そ野瞳には…特に何の感情も表れていない。
「少しお話、よろしいですか?」
「え、ええ…」
 彼女は多少の戸惑いを見せながらも闖入者に椅子を促した。そして今朝のような力ない笑顔を見せる。
「どうも、失礼します」
「あ、音楽止めましょうね」
 明日香はリモコンに左手を伸ばすが、掴んだ途端に床に落としてしまう。
「いやいいですよ、そのままで」
 代わりにそれを拾い、手渡しながら向島が言う。
「僕もピアノは好きですから…あなたと一緒で」
「え?」
 彼女は少し驚いて向島を見る。椅子に座った彼と、ちょうど目線の高さが合った。
「あなたのピアノコンサート、よく行きました。僕も目黒区なもんで」
「あ…」
「よく区民ホールとかでやられてたでしょう?テレビにも何度か」
「ありがとうございます」
 あまり嬉しくなさそうに…いや、むしろ悲しそうに明日香は答えた。
「僕も子供の頃ピアノ習ってまして、まあ親に無理矢理習わされたんですけどね」
 意に介さずといったふうに向島は楽しそうに話を続ける。
「でもあなたのコンサートを見て、悔しくなって猛練習したんです。同い年なのに、あなたのピアノが本当にすごくて」
「もう…忘れました」
 明日香はそう言って壁の方に目を逸らす。向島もしばし言葉を止め、流れる音楽に耳を委ねた。
「…これはドビュッシーですね。僕はやっぱりベタですが、『アラベスク』が好きかなあ」
 彼女は黙っている。向島は少しだけ身を乗り出して尋ねた。
「もう…弾かないんですか?」
 その瞬間、明日香は怒りの瞳で向島を見た。
「…嫌味ですか?回診の時に言ったでしょう、私の左手はもう満足に動かないの!それに私はもう…」
「戦争などで負傷した人のために、片手用の楽譜もたくさん出版されてますよ。それにあなたほどの腕があれば、どんな曲も片手用に編曲できるでしょう」
「ふざけないで!そんな中途半端なこと…」
 少し声を荒げた明日香の目には涙が滲んでいる。しかし向島は止まらない。う〜ん、この人の神経は…すごい。
「中途半端ですか?今みたいに、本当は弾きたいのにあきらめてしまう方がずっと中途半端だと思いますけど」
「私はもう弾きたくないのよ!」
「それならどうしてピアノの曲を流してるんですか?音楽は聴くのもいいけど、弾くのはもっと面白いとあなただって知ってるはずです」
 明日香はそこで口をつぐむ。久しぶりに大きな声を出したせいか、肩で息をしていた。
 …また沈黙。流れるピアノは少し旋律を波立たせる。それがおさまるのを待って、向島は口を開いた。
「あなたのコンサートを見た時に思いました。あ、この人は本当に音楽が大好きなんだ、音楽の魅力にとりつかれているんだと。…僕もそうなんです。音楽やってる時は本当に幸せで、こんなに楽しい時間は他にはない」
 無遠慮な男は瞳を少年のように輝かせている。彼女は搾り出すように言った。
「こんな体で、どんな演奏ができるっていうのよ」
「…どんな演奏だっていいじゃないですか。音楽は、好きであることが一番大切なんですから。そりゃ、昔のようにコンサートとはいかなくても、ここで弾いたっていいじゃないですか。大ホールで演奏するプロだろうと、家で弾いてるアマチュアだろうと、音楽を好きな人はみんなミュージシャンですよ。
 …僕も実はMJKって名前で色々曲作って応募してるんですけど、なかなか芽が出なくて。医学も嫌いじゃないけど、出来れば音楽で仕事をしたいんです」
 そこで明日香は「あなたのことなんかどうでもいいわ」と吐き捨てた。さらに苦言を続けようとするが、向島はその間を与えない。
「つまり僕が言いたいのは、あなたほど音楽が大好きな人が、このままでいるのはもったいないってことです!」
 語尾を強めてそう言い切った。明日香はまた壁の方を向く。室内には穏やかな旋律が流れる。

 ふと、向島は机の上に置かれたノートに気付いた。
「これは…作詞ノートって書いてありますね」
「手がダメになってきてから、書き始めたのよ…悪い?」
 明日香は半ばあきらめたように答えた。視線はそっぽを向いたままだ。
「いえいえ、僕も曲を作る時に詞を書きますから」
「ほら、よくあるでしょ?末期癌の人が手記を残すってやつ。この際だから、書いてやろうかなって」
「…拝見してもいいですか?」
「勝手にしたら」
 どこまでも遠慮のない男はしばらく黙ってノートをめくった。
「素敵な詞がたくさんじゃないですか…いいフレーズがいっぱいある」
 明日香はノートに見入っている向島を見た。そこには年甲斐もなく無防備にワクワクしている男。
「でも…もう、やめました。なんか書くの馬鹿らしくなっちゃって」
「どうしてです?」
 向島はノートをめくりながら尋ねた。
「だって意味ないじゃない、そんなの書いたって。そうよ、あなたはまたピアノ弾けって言うけど、そんなことして何か意味ある?この病室で未練がましくピアノ弾いて、何の意味があるのよ!誰が聴くわけでも、求められているわけでもないのに!」
「意味…」
 そこで向島は視線を上げ彼女を見た。再び2人の目が合う。
「そうよ!」
「僕はたとえ半身不随になっても、音楽をやめないと思いますよ」
「そんなの、そんなの…あなたが健康だから言えるのよ!もう…もう、出てって、出てってください!」
 明日香は涙声で叫んだ。
「私はあと半年で死ぬのよ!もうほっといて、お願いだから出てって!」
 向島はさらに何か言おうと口を開いたが…それをやめる。ノートを元の位置に戻し静かに立ち上がった。
「失礼しました」
 小声でそれだけ言うと、彼は病室を出ていった。
 明日香はしばらく閉められたドアを睨んでいたが、そのうち布団をかぶって横になった。
 室内に流れるピアノの旋律は、激しいものに変わる。
「うるさいな!もうほっといてよ!」
 そう布団の中で叫び…そして泣いた。

 向島が明日香の病室を出、廊下を曲がった所には幕羽医師が立っていた。その表情は一見穏やかではあったが、瞳は笑っていない。
「お疲れ様です」
 向島はそう軽く会釈して通り過ぎようとしたが、幕羽は彼を呼び止めた。
「向島先生」
「…はい?」
 振り返ったその顔は、いつも以上に謎の落ち着きに満ちていた。
「お昼休みなのに、病棟でお勉強ですか?」
「…ええ、まあ」
「君たち学生はカルテを読む権利もあるし、患者さんとお話することもできます…自由にね」
「…はい」
 学生はそこで指導医の瞳を見る。
「ですが、ここは癌病棟でもあり、末期の患者さんもたくさんいます。慎重にやってくださいよ」
 幕羽の瞳は、明らかに探りを入れていた。
「わかっています」
「田倉さんと…どんなお話を?」
 そこでストレートな質問。
「いえ、たいしたことでは…」
「カルテを読まれていたようだからわかっていると思いますが、彼女は癌の末期です。スキルスで、転移も多い。余命を告知したのは…3ヶ月前です」
「はい」
 そこで向島はちらっと彼女の病室の方を見た。幕羽の追求は続く。
「田倉さんは君と同じくらいの年齢ですが…それで興味を持たれたのですか?」
「別にそういうわけではありません」
「彼女は過酷な現実の中で、常に自分と戦っています。そういう患者さんと話をするのも君たちにとっては大切な勉強ですが…。中途半端な気持ちで惑わせたり、傷つけたりしないでください」
「どういう意味ですか?」
 今度は向島が尋ねる。
「君の好奇心や興味、同情などで彼女に接しようとしているのなら…それはおこがましいことですよ」
 学生は黙る。
「不幸な同世代の人間を、救いたいとお考えですか?気持ちはわかりますが…彼女の病状は、今の医学では救うことはできません。全力を尽くしてもね」
 そこで向島は瞳に僅かな敵意を浮かべて「彼女は不幸ですか?」と問った。「え?」と一瞬意味がわからない幕羽に、彼は続ける。
「救うなんて、そんなに簡単に考えてはいません。ただ…今の時代、医者は自分の身をしっかり守りながら人を救おうとしてます。…その意味では、全力を尽くしたなんて誰にも言えないんじゃないでしょうか」
「何だと?」
 幕羽に明らかな怒りの表情が浮かんだ。
「それに救われたかどうかは患者が判断することであって、こちらが押し付けるものではないと思います」
「生意気なことを言うのはやめなさい!」
 幕羽は声を荒げる。
「彼女の気持ちがわかったつもりですか?どんなに君が頭がよくても、同じ立場にならない限り苦しみを理解することはできない」
「わかっています」
 向島があっさり認めたので幕羽は面食らう。
「でも音楽を愛する気持ちは、理解できるつもりです」
 無礼の限りを尽くした学生は、最後に「失礼します」と一礼してその場を去っていった。
 う〜ん…やっぱりこの人はすごい。同村のように彼に憧れる者は少ないかもしれないが、とにかく只者ではない。
 そんなアウトローの背中を幕羽はじっと睨んでいた。
 …あいつ、危険だ。
 彼は考える。
 普通、医師に何か言われれば学生なんてものはすぐに従う…たとえそれが理不尽な指示であってもだ。社会人になったって、それが出来なければ組織の中ではやっていけない…特にこの大学病院では。
 あいつの噂は聞いている。学校をよく休むし、それで一度留年もしている。しかし成績はたいした努力もなしにさほど悪くない…つまり、頭は切れる。先ほどの救いがうんぬんの話題だって、普段から考えていなければあんな切り替え氏ができるわけはない。
「フフフ…」
 そこで幕羽は少し笑う。
 あんな男が、この私立医大にもいるのか。事なかれ主義のつまらない学生だらけの中で、あんなに自分の考えだけで動ける人間が。彼はおそらく自分で正しいと思ってやったことなら、誰を傷つけようが自分がどれだけ傷つこうが構わないのだ。組織においては、最も厄介な存在。…しかし、多くの人間に影響を与え、意識を変えることのできるのはきっとあんな存在なのだ。
 批判される度胸がない人間に、孤立する覚悟がない人間に、新しいものなど生み出せない。
「フフフ…」
 もはや幕羽の顔に怒りはなかった。
 彼は、遠ざかっていく和製パッチ・アダムスの背中に、何か懐かしい息吹を感じていたのかもしれない。

 駐車場、そこで向島は病院玄関に向かう同村たち5人と出会った。
「あれMJさん、今から内視鏡実習ですよ?方向が逆〜」
 と、美唄が笑う。
「ん〜、ああ、僕は…帰る」
 先輩は立ち止まることなくそう言った。
「え、マジですか?」
 と、長も反応する。
 しかし向島はもうそれには答えず、5人とすれ違うとそのままどんどん去っていく。何か、携帯電話を取り出してスタジオの予約をしているようだ。
「また音楽かしら?」
 班長はそう呟く。隣で井沢も「すげえ人だな」と久しぶりのあきれ顔。
 そのうちにすっかり遠くなった向島の姿を、同村は憧れの眼差しで見つめていた…コラコラ。
 そしてこれを最後に、向島はしばらく姿を消すことになる。

2

 それから3日が経過した木曜日。14班はついに美唄の念願であった店・キーヤンカレーを訪れた。消化器内科の実習は学生にとってあまり拘束時間が長くなく、昼休憩もゆっくり取れる。そのことが月曜日に渡された予定表でわかってから、かねてより話題に出ていたこの店での昼食が企画されたのだ。実は火曜日・水曜日にもチャンスはあったのだが、できれば6人全員でという美唄の希望もあって今日まで引き伸ばされた。そう、駐車場ですれ違ったあの日から向島はポリクリをずっと休んでいる。連絡も取れない。結局今日も来ていないのだが、これ以上引き伸ばせば次のチャンスがいつになるかわからないということで食事会は本日決行された。
 病院から徒歩5分、南新宿のビル街をわずかに外れた裏路地にその店はあった。噂ではもともと1人のおっちゃんが屋台で始めたのが人気を呼び、ついに店を構えるに至ったという実力派のカレー屋だ。数年前から徐々に噂を呼び、いくつかのマスコミでも取り上げられたことで今は毎日新宿のビジネスマンや若者で賑わっている。すずらん医大の学生の中にも確実にファンは増えつつあった。
「あ、ここだここだ!みんな、見つけたよ〜!ほら、カレーの匂い」
 まるでお店紹介番組のアイドルレポーター、大はしゃぎなのはもちろん真っ先に店に駆け寄った美唄。「わかったわかった」と後ろから呼びかける長は、まるで小さな娘お連れてきたお父さんだ。確かあれは6月の血液内科の時、美唄が病院の窓からこの店を見つけていつかみんなで行こうと言った。今ようやく実現したのだから、まあそのハイテンションも多めに見よう。…というか毎日多めに見てる14班メンバーなのではあるが。
「はいいらっしゃい!」
 バンダナを巻いたあんちゃんが威勢のいい声で5人を出迎える。時刻は13時15分、昼食時ピークを過ぎていたおかげで5人一緒のテーブルにつくことができた。
「ふ〜ん、こういう店内なんだね」
 まりかが興味深そうに見回す。茶色を基調としたログハウス風の作りにハワイの民芸品が飾られている。流れる音楽もハワイアン限定かと思えば時にJポップや有名洋楽も入り混じっており、店長のこだわりを感じさせた。
「なんか落ち着く感じでいいね」
 と、同村も感心する。思えばまりかや同村が同級生と昼食のために外出するなんて去年まで考えられなかったことだ。外出しての昼食自体はすずらん医大の学生にとって珍しいことではない。5年生に限らず通常のキャンパスライフが味わえない分、昼食くらいは開放感を求めて仲間と外食を楽しむ。幸いここは新宿、店探しに困ることはない。
 しかしまりかは用意してきた弁当を1人教室で食べ、同村は山田とコンビニのパンをかじる…それが4年生までの当たり前だった。ところが今は話題の店で同じテーブルを囲んでいる…よかったね、2人とも!
「わあどれもおいしそうだな〜どれにしよっかな〜」
 メニューを見ながら美唄のハイテンションは止まらない。幸い周囲の客もまばらなので大きな迷惑にはならないだろう。
「まあ午後のクルズスは3時からだから、ゆっくり決めなよ美唄ちゃん」
 井沢がそう言って笑う。そして同じくキーヤンカレー経験者である長とともに、みんなにお勧めをレクチャーした。そこから各自の注文が行なわれ、5人分のカレーが運ばれてきて一口食べての美唄の第一声は…やっぱり…。
「おいしい!頬っぺた落ちそう!」
 内容は店を誉めているのだが、その声のボリュームからさすがに営業妨害になりそうだ。みんなにブレーキをかけられるのもこれまたいつものご愛敬。読者のみなさん、美唄を嫌いにならないでね。こういう子なんです。
 まあそんなこんなで各人カレーを堪能し、同級生トークを楽しむ幸福な時間が過ぎていった。全員の皿が下げられ食後のアイスコーヒーが運ばれた頃、少し落ち着いた美唄が言う。
「ああ本当においしかった、お腹いっぱいだよ。…MJさんも一緒に来れたらよかったのに」
「でもさすがに向島さん…今回はやばくねえか?」
 井沢がカップに口をつけながら言った。
「確かに月曜しか来てないからな…それも早退だし」
 と、長も顔をしかめる。
「でもMJさん、なんか…今回はいつものサボりと違う気がするな。なんとなくだけど…」
「俺もそう思う」
 美唄に同村も同意した。ここまでの連続欠席は今までなかったし、月曜日の最後の姿が何かを思い立っていたように感じられたからだ。
「まさか…放浪の度にでも出たのかな」
 同村がそう言うと、美唄が「ありそうで怖い」と付け加えた。まりかも取り出した手帳を見ながら言う。
「でも…明日は幕羽先生の口頭試問とミニテストだから、さすがに来ないとまずいと思うわ。内容はそんなに難しくなさそうだけど、出席しないと単位はもらえない」
「一応、私メールしておくけど…」
 美唄はそう言って天井を見上げた。さてさて、君の先輩は…雲隠れして一体どこで何をやっているのか。
「それにしても…ポリクリももう半分近く終わったんだな」
 コーヒーを飲み干した長が考え深げに言った。
「確かにもう5ヶ月目だから…そうですね」
 と、井沢。長が続ける。
「この1年で将来どうするか考えようと思ったんだけど…なかなか決まらないもんだな」
「確かに…」
 同村も頭の中を向島から長の出した話題に切り替える。
「そうですね。俺も将来どうするか考えようと思ったんですけど…」
 そこでまりかが「でもそんなに焦らなくていいんじゃない?」と続く。
「ホラ私たちって、オールラウンド研修じゃない?だから、まずは何科に入局するかじゃなくてどこの病院で研修するかを考えないと…」
 『オールラウンド研修』とは、近年開始された新制度のことだ。これによって医学生は医師免許取得後、どこかの科に入局する前に全ての科を一通り研修することが義務付けられた。まあ簡単に言えば、「卒業してすぐに俺は実家の病院継ぎます!」とはいかなくなったわけである。この制度によってあらゆる科に精通したドクターが誕生するのなら素晴らしい、と思われるかもしれないが…現実には様々な問題をはらんでいる。まあ、新制度が始まる時というのは得てしてそういうものだ。
「オールラウンドか、本当に面倒臭いのが始まったよな」
 井沢が小さく舌打ちする。
「実際に研修して回ってる先輩に聞いたら、なんかポリクリに毛が生えた程度だってさ」
「う〜ん、まだ始まったばかりの制度だからな。指導する側もどうしていいかよくわかんないんだろう。こういうのってお上が勝手に開始して、現場は準備不足なんだよな」
 長も自論を述べていく。
「それに指導医だって、将来自分の力になってくれるわけでもない研修医に本気で教える気にはならないだろ。せっかく教えて使えるようになっても、すぐまた次の科に回っていっちゃうんだから」
「確かにそうですよね…」
 同村も同意した。その隣の美唄は珍しく黙ったままだ。続いてまた班長が発言する。
「研修医にも色々あるものね。場合によってはオールラウンドよりも、自分がやりたい科にすぐ飛び込んだ方がいい場合だってあるかもしれない」
 彼女はそこで少しメガネを直して続けた。
「やる気がある人なら、必要に応じて自分で他の科の研修を申し込むわよ。別に義務にしなくてもね。昔のお医者さんはそうだったんだから」
 そこで再び長が言う。
「こういうのって、現場の意見も聞かずにお偉いさんが勝手に決めちゃうんだよな。円周率の3と一緒さ。変えてみたけど、やっぱり都合悪かったからすぐ戻そうってなったじゃない」
「俺たちは、その過渡期に就職だから…マジ損ですよね」
 井沢が悔しそうに続けた。
「結局先輩に聞いても、学務課に聞いても、とりあえず決まったからやるしかないとしか言われませんもん。こんなわかんねえことだらけの状況で、研修をする病院を選べったってなあ…。俺たちは国の実験台じゃねえっての。人の人生を何だと思ってんだ」
 そこで再びまりかが言う。
「私も色々調べたんだけど…誰もちゃんと説明してくれる人いなくて。私、医学部に入った頃は卒業してすぐ自分の行きたい科に行けると思って楽しみにしてたのに…ちょっとガッカリ」
 井沢が「秋月さんの行きたい科って?」と尋ねる。彼女は少し照れながら「一応…神経内科」と答えた。「さすが班長、あんなに難しい分野を」と長が感心する。
「でもそれも…オールラウンドのせいで当分先になっちゃった」
「結局国が決めたから、とりあえず従うしかないって感じだよね」
 同村が少し腹立たしげに言った。もちろんその怒りはまりか個人に対してではなく、この如何ともし難い現状に向けられている。
 …そう、それはまるで学校が決めたことなら従うしかない医学生と同じ。同村の最も嫌う部分だ。まあその意味では今のうちに理不尽に服従しておくことは、将来のための練習とも言える…もちろん悪い意味でだが。
 同村はコーヒーを飲み干してから続ける。
「でも医師免許は国家資格だから、制度がおかしいからって国に逆らえるドクターなんていないんだろうな」
 そう、それもまた進級の命運を学校に握られている医学生と同じ。もし免許没収も省みず国に立ち向かえるドクターがいたとしたら…それこそ本当のアウトローだ。そういえば14班のアウトローはどうしたんだろう、とそこでまた同村は向島を思い出す。こんな時こそ彼の意見が聞きたかった。
 その後も全員のコーヒーがなくなるまで、新制度についての議論…というか愚痴大会は続いた。
「ねえ、美唄ちゃん?」
 愚痴も出尽くした頃、長がずっと黙って聞いていただけの美唄に気付いた。声をかけられて美唄は「…そうですね」と小さく答える。
「ごめんなさい、お腹いっぱいで眠くなっちゃった。でも私も…オールラウンドは早くなくなってほしいです」
 そこで彼女は背伸びして「あ、そろそろ時間ですね、行きますか。あ〜おいしかった!」と元気にみんなを促した。そこにはいつもの彼女の笑顔がある。それを見て同村も安心したように微笑み、そんな彼の様子を残りの班員たちは暖かく見守るのであった。どうやら作者よりも、彼らの方が同村くんの内面に明るいらしい。
「ごちそうさまでーす!」
 美唄にならって転院のあんちゃんに声をかけながら5人は店を出る。後半は思わぬ話題に発展したが、14班初めての外食は楽しさの中で終了した。
 満腹を抱えての帰り道、5人は改めて天に聳え立つすずらん医大病院を見た。そして思い出す…この巨大な白い建物の片隅、18階の一室に、あと半年の命を生きる女性がいることを。
 誰もそのことを口にはしなかった。ただそれぞれの心に浮かぶ生きることへの問いかけ。そこで実感する…自らが恵まれていることを。おいしいカレーを食べて、あーだこーだと愚痴を言って、将来どうするかを考えて…。
 今自分は紛れもなく生きている。これからも生きていくつもりでいる。
 そして改めて思う。この命はひとつしかない、この人生は一度しかないのだと。今回があまり振るわなかったからまた次回に期待…とはいかないのだ。

 午後の実習、5人はキーヤンカレーがもたらす強烈な眠気にも打ち勝ちいつも以上の真剣さを見せた。

 同日午後6時、実習から解放された5人は学生ロビーのいつものソファにいた。もしかしたらとの期待もあったが、やはり向島が遅れて現れることはなかった。5人で明日の口頭試問とミニテストの対策を終えると、長が立ち上がってあくびをする。
「ふぁーあ、眠い。あのカレーは睡眠薬でも入ってんのかな」
「本当にそうですね、それにお腹も全然空かないし…今日は晩ご飯いらないかも」
 まりかもそう言って小さくあくび。井沢も「俺も今日は早く寝よう」と伸びをした。何度も携帯電話を確認している美唄に同村が尋ねる。
「どう、遠藤さん。向島さんからの返信あった?」
「…ううん。一応今みんなで話した勉強の情報もメールしておくけど、明日は来てくれるかなあ」
 と、美唄は小さく溜め息。そして全員の顔を見て言った。
「みんなごめんね。でもMJさんは悪い人じゃないの…」
「わかってるって」
 そう真っ先に返したのは井沢だった。
「俺も最初は不真面目な人なんだと思って正直ムカついてたけど…今はあの情熱はすごいなって思ってるよ」
「そうだよ、結構私にも気を遣ってくれるのわかるし」
 そうまりかも微笑む。長も頷いて言った。
「そうそう。それにあの人本当に嬉しそうに笑うじゃん。ちょっと失礼かもしれないけどあれがかわいくてさ、俺もあの人と話すの好き。だから美唄ちゃんが気にすることないって」
 同村も力強く言った。
「そうだよ遠藤さん。俺も思うんだ、あの人はきっといつか大学病院に奇跡を起こすなって。そしたら俺たちも仲間として伝説に残るかも」
「そっか…そうだね、フフフ。みんなありがとう」
 少し心配そうだった美唄に元気が戻る。どこにいるのか向島、君はとてもよい後輩に囲まれているみたいだぞ。
 5人は帰り支度をして立ち上がる。みんなの言葉を聞いてテンションの上がった美唄がいつものノリで言った。
「そうそうMJさんね、自分の活動をホームページにも載せてるの。『MJウェブ』ってサイト、よかったら見てあげて」
 全員が声を揃えて答える。
「いや、そこまでは」

3

 同日夜、午後10時。面会時間もとうに終わり電気も消された病棟は、昼間の混雑が嘘のように静まりかえっていた。夜勤者の足音がどこまでも響く暗黒の世界、非常灯とナースステーションだけが明るく浮かび上がっている。
 18階、闇に紛れて田倉明日香の病室を訪ねてきた者がいた。それはもちろんあの男…。
「失礼します」
 男はボサボサ頭に緑色のジャンパーをまとい、その目を充血させている。何日も布団にも風呂にも入っていない感じだ。警備員に見つかれば間違いなくお縄になるだろう。
「あら…こんな時間まで実習ですか、向島先生?」
 悲鳴を上げられても文句の言えない状況であったが…明日香は冷めた声でただそう言い、読んでいた文庫本をそっと伏せた。昼間から薄暗かった室内は夜の侵入を許しさらに闇を深めている。そんな中、光と影をまとった彼女の白い姿だけが儚く浮かび上がっていた。
「こんな夜分にすいません」
 向島は怪訝そうな彼女の表情もなんのその、ズカズカと入り込む。そして「夜は音楽は聴かないんですか?」と尋ねた。そういえば、確かにラジカセは沈黙している。
「別に…なんか、もう聴くのやめたの。あなたがこの前来てから」
 明日香はそう言ってまたそっぽを向く。
「そうですか…でも、ぜひこれだけは聴いてほしくて」
 向島は勝手に部屋のラジカセに持参のCD-Rを挿入する。相変わらずの無遠慮さに溜息を吐きながら、明日香は「何ですか?」と投げやりに尋ねた。
「まあまあ、とりあえず聴いてみてください」
 そう言うと向島は右手の人差し指を立て、そっと自分の唇に当てる。もちろんそれはお静かにの合図なのだろう。彼女はあきらめ顔で従う。
 …数秒の後、静かなピアノ演奏が始まった。ミディアムテンポの、まるで伺いを立てるかのような優しくて臆病な旋律。
「知らない曲ね」
 明日香はそう言ったが、闖入者は黙ったままだ。
 やがて歌が始まった。どうやら先ほどまでは曲の前奏だったらしい。純粋な少年のような声が、日本語の歌詞を歌い上げる。
「これは…」
「すいません、ヘタクソなボーカルで」
 そう言って向島が照れくさそうに笑った。明日香が「これ、あなたなの?」と少し身を乗り出す。
「ええまあ…歌は下手ですが、歌詞に注目してくださいよ」
 そこでまた2人は言葉を止め、その歌声に集中する。やがてワンコーラスが終わり、間奏となった。
「これって…」
「そう、あなたがノートに書いていた『末端音楽段』という歌詞です。これが一番気に入ったんで、曲をつけてみました。本当は他の楽器も入れたかったんですが時間がなくてピアノ伴奏だけですが…」
「でも、いつ歌詞を…」
 明日香は目を丸くしてそう尋ねる。…当然の疑問だ。
「月曜日にここでノートを見せてもらった時ですよ。僕、歌詞ならばすぐに憶えられるんです…教科書はダメですけど」
 そう言って向島は片目を閉じてみせる。う〜ん…天才。
「で…これがどうしたんですか?」
 一瞬相手のペースに引き込まれかけたが、彼女はまた少し冷たくそう言った。
「あ、そうそうそれですよ」
 そこで向島はジャンパーのポケットから数枚の紙を取り出した。
「この曲をインターネットで流してみたんですよ。自分のホームページとか、あと色々な知り合いの伝手を頼って…。そうしたら、何通か感想のメールが来ましてね。プリントアウトしてきました」
「え…」
 戸惑う明日香に構わず向島は「読んでみましょう」と言葉を続けた。
「まず1人目。…すごく優しい曲ですね。控えめな歌詞なのになんだか力強くて、ちょっと元気でました。
 2人目。…聴きました!悲しみの旋律も優しさにアレンジしてって歌詞が大好きです!」
 向島はまるでDJのように、抑揚をつけて読み上げていく。
「3人目。…穏やかな絶望は希望を奏でられる、という歌詞の意味を考えさせられます。絶望の中にいる人間が希望を叫んだ時、そこにはすごい説得力が生まれる気がします」
 そこでアウトロー医学生は視線をベッド上のピアニストに向ける。いつしか彼女の瞳には涙が溢れていた。
「4人目。…私も音楽が大好きなんで作者の気持ちがよくわかります。続いて5人目。…夢を見るってやっぱり大事なことなんだと思いました。でもちゃんと人の痛みも見ようとするこの作者はすごいと思います。嘘っぽくないメッセージがよかったです。6人目…」
 明日香の涙がベッドに落ちる。その後もいくつかのメールを紹介して向島は彼女に言った。
「だいたいこんな感じです。僕の歌に対する感想は全然ないんですけどね。まあいいや」
 向島は苦笑いして紙をポケットにしまう。
「どうです?まだたったの何人かですが…あなたの歌詞に反応してくれた人がいたんですよ。もちろんあなたの名前や現状は公開してません。音楽だけで勝負してます」
「そんなの…そんなの…」
 明日香は震える声で言い、右手で両目を覆った。
「確かに、たったこれだけのことです…今は。でももしかしたら、あなたの歌詞で元気になった誰かがまた他の誰かを元気付けるかもしれない」
 向島はワクワクを隠しきれない少年のように興奮して喋る。
「またその誰かが他の誰かを幸せにするかもしれない…そんなふうに考えたら、素敵だって思いませんか?もちろん、医者のように目の前で誰かが元気になるのを見ることはできませんけど。もしかしたら自分の歌詞が、メロディが、演奏が…世界のどこかで誰かの心に響いているのかもしれない。そんなことを信じられるのが…ミュージシャンの醍醐味ですよね?」
 明日香は目を覆っていた手を外し、涙の向こうに向島を見た。暗い室内、その姿はボヤけている。
「僕も…昔あなたの演奏を見て、音楽の魅力にとりつかれました。今では、それが僕の人生の全てです。芽が出るかどうかわかりませんが…何があっても僕は音楽をやめられないでしょうし、それで…幸せです」
 そこで演奏は終了した。彼が一歩歩み寄ったことで明日香にはようやく向島の顔が見える。
「…どうですか?これでもあなたの生きた意味はありませんか?」
 そこには、彼の…美唄顔負けのとびっきりの笑顔があった。
「ワアアアーン!」
 その瞬間明日香は泣いた。まるで子供のように、ためらいない大声で泣きじゃくった。
「生きたい、生きたい、死にたくない!ワアアアア…」
 おそらく、ずっと抑え込んでいた感情が破裂したのだろう。病室に響くその荒れ狂う心の旋律を、向島は黙って受け止めていた。もしここが緩和ケア病棟でなかったら、その声を聞きつけて看護師が飛び込んできたに違いない。

 ひとしきり泣き叫んだ後、やがて明日香は沈黙する。室内には、全ての音が鳴りやんだコンサートホールのような静寂が訪れる。そして一礼を終えた指揮者のように、彼女はゆっくり顔を上げた。
「ありがとう、向島先生…。じゃなくて、ミュージシャンMJKかな?」
「いえいえ」
 向島は笑顔で首を横に振った。
 もしかしたらこれは、彼なりの恩返しだったのかもしれない。人生を豊かなものにしてくれた彼女への…。ステージの上の音楽家は刹那のうちに消えていく。その時の演奏、その時の感動、その時の輝きは…CDやDVDをもってしても記録することはできない。ただ1つ閉じ込めることができる場所があるとすれば…それは心の中しかない。誰の心にも忘れられないコンサートの、忘れられないスターがいる。あの日ピアノをやめたがっていた向島少年の心に、ステージの上の明日香は永遠に刻まれたのだ。
「僕の方こそ…ありがとうございます」
 そう言って向島は頭を下げた。明日香は少し首を傾げる。
「私は何も…」
「いえ、あなたは教えてくれました。幸せとはどういうことかを」
 向島はそこで笑顔を消す。
「色々な価値観があります。例えば僕の周りでも、留年したとか進級したとかそんなことで騒いでます。世の中でもそうですよね。勝ち組だとか負け組だとか、金持ちだとか貧乏だとか…」
 そこで彼は明日香を見て「健康だとか病気だとか、生きてる意味があるとかないとか」と続けた。彼女は黙ってその言葉を受け取る。
「色んな価値観がありますけど、でも、幸せかどうかを決めるのはもっと単純なことです」
「…それは、何ですか?」
 明日香は心からそう尋ねた。
「…自分の好きなことがあるかないかです。昔、あなたの演奏を見た時に思いました。好きなことを見つけた人間が一番幸せで…一番強いんだと。たとえ全てを奪われたとしても、好きだという情熱だけは誰にも奪えませんから」
 そう言うと向島はまた笑顔を見せた。
「だから僕は…あなたが不幸だとは思っていません」
「そうか…な」
 明日香も少し笑顔になる。それは教授回診で見せた誤魔化しの微笑みではない。本当に久しぶりに…彼女の心が笑ったのだ。そう、読者のみなさんもMJKのライブを一度観ればきっとわかって頂ける。ステージの上の彼は楽器と戯れながら完全に我を忘れている。ただ好きなことに夢中になっている。
 そもそも生きる意味なんて考えもしていない瞬間…きっとそれを幸せと呼ぶのだ。
「変ですね、これはあなたから教わったことなのに」
 そう向島がおどけてみせる。明日香はそこでもう一度「ありがとう」と言った。
「向島さん、これからも頑張って音楽続けてね。いつか…いつか、私が死んじゃった後も」
「ええもちろん。申し訳ないですけど、絶対やめません」
 それを聞いて明日香はさらに微笑んだ。そしてからかうように言う。
「でも、ボーカルはもっと練習した方がいいかも?」
「あちゃ〜やっぱりそこかな」
「クスクスクス…」
 夜中の南新宿、その大病院の一室…そこには音楽に魅了された2人の幸せな空間があった。

 …誤解のないように、向島はただの音楽オタクのド変人です。今後も彼は数々の問題行動で病院や大学に波乱を呼ぶ。彼がようやく自分のスタイルを見つけ、ミュージシャンとお医者シャンを絶妙なバランスで両立させていくのは…まだまだ遠い未来の話です。
 あれ?この小説ってこういうテイストだったっけ?

 翌日金曜日、口頭試問とミニテストが予定通り行なわれた。全てが終わった後、カンファレンスルームにて幕羽医師が各人の成績を発表する。
「秋月先生95点、井沢先生88点、長先生85点、遠藤先生80点、同村先生75点…ここまでは無事消化器内科の実習合格です。よく頑張りましたね」
 幕羽は笑顔でそう言った。
「そして向島先生」
 彼はそこで厳しい顔になり、3日ぶりに現れた問題児を見る。他の班員たちも不安そうな顔で彼に視線を集めた。
「点数は…61点。残念ながらギリギリ合格です。でも、君は欠席が多過ぎます」
「はい…わかってます」
 向島は頷いてそう言った。
「ですから…」
 幕羽はそこで少し言葉を止めた。室内に緊張が走る。
「だから、君は来週のお盆休みも返上してうちの科の実習をしなさい!それを休んだら本当に単位はあげません」
「は・はい!」
 向島はそう言って背筋を伸ばす。
「そうそう、明日の土曜日も来てもらいましょうか」
 学生は再び「はい」と答える。そこで指導医は少し穏やかな顔になった。
「いやあ、実は田倉さんが病室で弾けるキーボードを買ってほしいそうなんですが、私には種類とかセッティングとかよくわかりません。だから、君にその買い出しとかをやってもらいます。そのつもりで!」
 そこで幕羽は向島の肩をポンと叩き、部屋を出ていった。…いいとこあるじゃん!彼の足音が遠ざかると、何とか首が繋がった仲間への祝福が寄せられる。
「よかったですね、MJさん!」
 と、笑顔100パーセントの美唄。
「3日間もどこに行ってたんですか」
 同村も微笑んで言う。
「罰として今度全員にキーヤンカレーをおごってもらいます」
 まりかがそう言い、長も「出た、班長命令!」と手を叩いた。
「え〜勘弁してよ。睡眠不足でもうフラフラなんだから」
「これに懲りてサボり癖は直してくださいね」
 と、井沢も笑う。
 まあ何にしてもこれで消化器内科は終了…向島以外は。
 幸せな先輩よ、ちゃんとみんなに感謝してカレーくらいおごらなくちゃいけません。これだけアウトロー三昧してもこうやって受け入れてくれてるんだから。
 それに…実は感謝するのはそれだけではない。昨日美唄がみんなに向島のホームページを教えた。その場では誰も興味を示さなかったが、実は全員後でチェックしていた。そしてそこであの曲を聴いたのだ。
 そう、届いたメールのうち5通は14班の仲間からだったのだ。もちろん匿名なので向島は気付いていないし、お互いメールしたことも話さないから誰も知らない。だからこの小さな偶然がどんな意味を持っていたかを彼らは知る由もない。
 これも一種のチームワークなのかな?
 どうしてみんな向島のホームページを見る気になったのか。そこで聴いた曲に感想を送る気になったのか。まあこれこそが明日香や向島の信じてやまない、音楽の魔法なのだろう。彼らはあの日確かに導かれたのだ…希望の旋律に。

 どういう心境の変化か、これ以降向島はポリクリをサボらなくなった。その代わり実習中に突然行方不明になることは多くなったが。そんな時は大抵、明日香の病室で彼はキーボードを弾いている。まあ、あまりにノリノリ大音量で演奏するものだから…何度も看護師に大目玉を食らうのだが。
 読者のみなさん、もしあなたの通う病院で場違いな音色を聞いたら…それはMJKかもしれませんよ?
 ではでは今月の物語も、これにてカーテンコールです。



末端音楽団
(作詞:ASUKA 作曲:MJK)

チューニングの甘いフォークギターと
バケツを裏返しただけのドラムと
おもちゃのピアノ 壊れかけのハーモニカ
それだけで十分に音楽団

いるといないとじゃ何かが違う
どんな楽器でもいいから君もこいよ
そりゃどう見ても名曲じゃないけれども
世界中ここにしかない音だ

夢を見ようよ できることなら
肩書きも気まずさも演奏すれば問題なし
君が好きだよ どんな時でも
あきらめたくなかった意味はあったんじゃないか?


自分の調子がいい時には
小さなSOSが聴こえなくなる
ワンフレーズが誰かを傷つけてる
切れそうな細い弦を張り詰めて

人を見ようよ できることから
悲しみの旋律も優しさにアレンジして
君のリズムも 僕のメロディも
ヘタクソでもいいから最後までやりきるぜ!


世界中にいる音楽を愛する仲間たちの
末端で僕らも音を出し続けよう
誰かを想いながら

夢を見ようよ できることなら
穏やかな絶望は希望を奏でられる
君が好きだよ どんな時でも
あきらめたくなかった意味はあったんじゃないか?
僕ら末端音楽団

9月、精神科編に続く!

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