コラム

2009年5月『当直室にて』

 現在午前1時15分。今夜は当直のため病院にお泊まりである。せっかくなのでその時間を利用して今回のコラムでも書いてみようって趣向だ……まあもし途中で呼び出しの内線が鳴ったら行かねばならんのでその時はご勘弁。

 さて、夜の病院……というと怖いって思う方も多いかもしれないが、僕は結構好きだったりする。日中のせわしない雰囲気が一転して静まり返る館内……人影のない廊下を歩くと足音はどこまでも反響する。自動販売機と非常口の明かりだけがかろうじて闇を退け、それ以外の多くのものは夜の侵食を許している。そして、日中は全く気がつくことのない壁の時計の針が、やけに鋭く鼓膜を刺激する。

 カチ、カチ、カチ……。

 ……静かだ。特にここは山中の病院だから、街の明かりや喧騒も届かない。草木も獣ももののけたちも、もう眠ってしまったのだろう……まさに静寂の世界に囲まれている。まるで宇宙ステーションに取り残された最後の1人のような気分になる。

 まあこの時刻となるとさすがにもう病棟の夜勤スタッフくらいしかいないが、もう少し浅い時間帯なら結構残業で残っている職員さんがいたりする。そんな人たちと会えるのも当直の醍醐味。何だろうな、残って仕事をしている人は、勤務時間中とどこか感じが違う。服装がラフだったり髪を下ろしたりしているせいもあるかもしれないが、そう、その人の素の部分が見え隠れしている感じだ。残業をしている人に会うと、「お疲れ様です、遅くまで大変ですね」なんて言い合ったりして、いつもより親近感がわく。缶コーヒーとお菓子をつまんで、仕事中でも飲み会でもしないような話ができたりする。今夜もレセプトをしている事務員さんや、害虫駆除を行っている栄養士さん、戸締り点検でまわっている助手さんたちに出会った。見えないところでみんな色々頑張ってんだなあ……なんてのん気に思ったりする。

 そんな闇にうごめく仕事人たちと別れ、今度は病棟に上がると、そこには夜勤の看護師さんや助手さんたちがいる。消灯前の精神科病棟は、広間に患者さんたちが集まってテレビを観てたり、お話してたり、あるいは麻雀をやっていたり……と結構にぎやかだ。ちょっと不謹慎な言い方になってしまうが、修学旅行や合宿の夜の雰囲気に少し似ている気がする。特にこの病院には体育館とかもあるし、農園や自然が周囲を囲んでいるから、余計にそんな気がするのかもしれない。
 夜勤スタッフに特に変わったことはないかを確認し、今度は会議室にでも行ってみる。な〜んか暇を持て余しているように見えるかもしれないが、当直は基本的に緊急事態の対応が主な仕事。精神科治療には治療枠ってのがあって、いつでもどこでもカウンセリングすればいいってものでもない。だから、事情がない限り夜間に診察することはない。それに精神科の病棟内は患者さんたちにとって暮らしの空間でもある。夜まで医者がウロウロしてるのもねぇ……。もちろん具合の悪い方がいる場合は別だけど。

イメージ 無人の会議室に入る。恐れ多くも院長先生の椅子に座り、「オッホン、やあ諸君」なんて言ってみるが何だか寂しいのでとりあえず部屋に戻った。
 そんなこんなで今の時刻なわけだが……さて、これからどうしようか。デスクワークがたまっているならそれを片付けるのもいいけど、今夜はそれほどでもない。チューニングの合わないフォークギターを鳴らしてみたり、インターネットを見てみたりする。昔は当直室には「ブラック・ジャック」の単行本が積んであるのが定番だったらしいけど、今はDVDなんてものもある。大好きな「バック・トゥ・ザ・フューチャー」2部作を一気に朝まで観るのもいいが、まあここは眠るのが賢明だろう。当直は夜勤と違って、翌日も普通に勤務だから、寝られる時は寝とかないとね。
 そろそろ書くこともなくなってきたし、このコラムもおしまいにして、横になるとしますか。今のところ内線電話は鳴っていない……患者さんたちも平穏に眠っているのだろう。そして、もう少しすれば患者さんたちの朝ごはんを作る調理師さんたちがやってきて、また新しい一日が始まるのだ。

 というわけで僕は電話を枕元に移動させる。
 でわでわ皆様、平和な夜であることを祈りながら、おやすみなさい。

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