コラム

2010年1月スペシャルコラム『薬剤師探偵と雪の出会い(出会い編)』

※このコラムは愛する職場をモチーフにしたユーモアミステリーであり、フィクションです。

 その日、北海道全土は記録的な大雪に見舞われていた。まるで雲がそのままこぼれ落ちてきているかのように、街も、山も、森も、全てが白く衣を着せられていた。夜更けから降り続いたこの空からの贈り物は、正午を過ぎてもまるで遠慮されることもなく、人間たちの交通機関にも大きな影響を与えていた。
 さて、ここにも大幅にダイヤを乱した電車が1つ……、徐行を余儀なくされ、すでに到着予定時刻を1時間半も過ぎている。終点・新千歳空港を目前として、現在本日4回目の停車状態であった。年始に加えこの天候のせいもあり、5両編成のその車内は客もまばら、空調の音だけが無機質に響いていた。

『皆様、現在雪のため運転を見合わせております。整備が終わり次第運転を再開致しますので、もうしばらくお待ち下さい。お急ぎのところ誠に申し訳ありません』
 車掌の放送が入る。それを聞いて、2号車に乗っていた彼女は小さくため息をついた。
「はぁ……さすがは北海道……」
 彼女は窓の外を見る。その思惑などお構いなしに、空からの贈り物は相変わらず続いていた。彼女は長い黒髪をひとなですると、席を立ちデッキに出た。
「この分じゃ空港に着いても……やっぱり飛行機無理ね」
 呟きながら彼女は自動販売機であたたかい紅茶を買う。そして、席に戻ろうとしたその時……。
「あの、すいません」
 突然声をかけられた。振り返ると、そこには長身の青年が立っていた。この季節にしては少々防寒不足ないでたち、まるで着の身着のままで家から出てきたかのようなその青年は、不安に満ちた瞳で彼女を見つめている。
「え、あの、私に何か?」
 彼女は少しためらいがちに答えた。
「あの……あの、ここはどこですか」
 青年は怯えるような声で言う。
「いや、あの、ここは……電車の中ですよね」
「え?」
 彼女の戸惑いに追い討ちをかけるかのように、青年はそこで突然声を荒げる。
「あの、ここは電車の中ですよね? わ、わからないんです! な、なんで僕はここにいるんですか? お、教えて下さい! 記憶が、記憶がないんです!」
 彼女は返す言葉を失う。見つめ合ったままの2人、訪れるしばしの沈黙。窓の外には果てしなく広がる白の世界……。この不思議な出会いが、青年の、そして彼女の運命を大きく変えることになるのであった。

*

 彼女の提案で、2人は寒いデッキから車両の座席に戻った。青年も自動販売機であたたかいコーヒーを買い、彼女の隣に座った。
「あの……驚かせてしまってすいませんでした」
 青年は少し冷静さを取り戻したようで、コーヒーに口をつけながら穏やかな口調で言った。その視線はぼんやりと足元に落とされている。
「あの……寒くないですか?」
 彼女も紅茶に口をつけてから、先ほどよりもやわらかい口調で青年に言葉をかける。
「ええ、大丈夫です。暖房がよくきいているので……」
 そこで青年は視線を上げて彼女を見た。その瞳にはまだ不安の色が浮かんでいる。
「……少しずつ、落ち着いてきました。あの、よかったら状況を整理したいので、話を聞いてもらってもいいですか?」
「ええ、構いませんよ……私でよかったら」
 彼女は優しく微笑む。窓側に座っている彼女の後ろには、流れるような雪のシャワー……、その白い魔法のせいもあってか、青年には一瞬彼女が聖母とだぶって見えた。

「あ、あの……僕は馬渕といいます。馬渕行雄(まぶち・ゆきお)です」
「私は……邑上です。邑上式部美(むらかみ・しぶみ)。1つずつでいいんで、憶えていることから話してみたらいいと思いますよ」
「そうですね……。実は、今日の記憶がまったくなくて……昨日の夜は普通に家にいたと思うんですけど。気がついたら、この電車のデッキにいて……、それで、混乱して、たまたま通りかかったあなたに声をかけてしまったんです」
「そうですか……、じゃあ、何故電車に乗ったのかも……」
「ええ、全くわからないんです。いったい、何を思い立ったのか、どこかに行こうとしていたのか……。僕、どうかしちゃったんでしょうか? き、記憶をなくすなんて……。今までこんなことなかったのに……」
 青年はもどかしそうに頭をかきむしる。
「お、落ち着いて下さい馬渕さん。大丈夫ですよ」
「で、でも、普通じゃ考えられないですよね、いきなり記憶を失うなんて……」
「確かに」
 彼女は少し語調を強めて言った。
「確かに、一度精密検査はお受けになったほうがいいと思います。でも、頭をぶつけていらっしゃる様子もないですし、緊急性の脳の病気などの兆候もないように思います。断言は出来ませんが、もしかしたら精神的な要因による記憶喪失かもしれません」
「邑上さん……お医者さんなんですか?」
 すがるような瞳の青年に、彼女は再び語調を緩めて答える。
「いいえ、私は……薬剤師なんです。でも、前に心の病院で働いていたことがあって、その時少し勉強したんです。確か、心に大きなストレスがかかったせいで記憶を失くしてどこか遠い場所に行ってしまう……そんな症状がありました」
「そ、そうなんですか……。ストレスでそんなことが……。でも、邑上さんが薬剤師さんだなんて……、いや、ちょっと安心しました」
 少しほっとしたような青年に、彼女は微笑む。
「お力になれるかわかりませんが……一緒に考えてみましょう。いや、無理して考えなくてもいいかもしれませんね。まずは心を落ち着けること……一緒にお話しているうちに、ふっと思い出すかもしれませんよ」
「あ、ありがとうございます!」
 青年は初めて笑顔を見せた。
 と、そこで再び車掌の放送が入る。

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『お客様にご連絡致します。雪のため、整備に時間がかかっております。運転再開まで、もうしばらくお待ち下さい……』
 それを聞きながら彼女はゆっくり紅茶に口をつけた。
「馬渕さん……どうやら、ゆっくりお話する時間は十分ありそうですね」
「は、はい。そうですね……」
 そう言って青年もコーヒーに口をつける。その瞳には、少しだけ安堵の色が宿る。しかし彼はまだ知らない……彼の隣にいるのは、今までにもいくつもの謎を解明した名探偵であるということを。

(次回、「ふれあい編」につづく)

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