コラム

2012年07月★スペシャルコラム『刑事カイカン 支持的受容的完全犯罪(1)』

※このコラムノベルはフィクションであり、現実の医療業界とは大きく異なります。そして著者に面会に来て下さるMRさんたちはみなさんいい人ですのでご安心下さい。

■精神科医・飯森唄美(いいもり・うたみ)の視点 その1

 金曜日、午後6時30分。アカシアメンタルクリニックの診察室は重苦しい空気に支配されていた。診療をおえ、他のスタッフを帰した後で製薬会社のMRと面談、その後はお気に入りのレストランで夕食をとる・・・そんないつも通りの私の週末プランを、この男が台無しにしてしまったのだ。
男の名は佐藤利雄(さとう・としお)・・・今日最後に現れた、メロディアス製薬のMRだ。しかし、佐藤の面談の目的は薬に関する情報提供ではなかった。診察室の丸い机の私の対面に座り、彼は得意げに話しを続ける。
「いやいや・・・本当にすごい偶然でしたよ。確か先生が当直だとおっしゃってた夜に街を歩いてらっしゃるからおかしいとは思ったんですけど・・・」
 佐藤はいやらしいうすら笑いを浮かべながら話す。
「それで後をつけたら、まさか・・・逢い引きをしていらっしゃるとは」
 そこで佐藤は携帯電話を取り出しその画面を私に見せた。そこには私と男性が腕を組んで歩いている写真・・・。言葉を出せないでいる私に佐藤は更に続けた。
「まさか先生ともあろうお方が・・・妻子のある男性とお付き合いをしていらっしゃるとは・・・僕も本当に驚きました」
 ・・・なんて憎らしい顔。私はそこでようやく言葉を搾り出す。
「それで・・・何が望みなのよ」
 自分でも驚くほど、それは小さくかすれた声だった。落ち着け、落ち着くんだ。感情を出してはいけない。感情をだせば相手の思う壺だ。
私の表情をうかがいながら佐藤は答えた。
「先生、そんなに怖い顔しないで下さいよ。僕の要求は・・・2つです。実は・・・お金に困っていましてね。会社の交際費も使い込んでしまってる状況なんです。ですから・・・・お金が・・・現金が必要なんです」
「現金・・・」
「そうです」
 佐藤はいけしゃあしゃあと言う。怒鳴りつけたくなる気持ちを抑えながら私は言葉を続けた。
「それで・・・もう1つの要求は何なの?」
「もう1つは・・・簡単なことです。これからも先生には、わが社の薬をどんどんご処方して頂きたいんです」
 その言葉と佐藤のうすら笑いに私の背筋が凍った。私は「何を言ってるの?」とかすれる声で問い返す。
「実は僕・・・・営業成績もさっぱりでしてね、このままだと会社にいられなくなるかもしれない。ですから、先生が我が社の薬をたくさんご処方してくだされば、僕の株も上がるってものです」
 ・・・最低な男だ。私の口から思わず「あなた・・・」と怒りの言葉がもれる。だがそれを抑え込むように佐藤は続けた。
「別に、法律違反の処方をして下さいって言ってるんじゃないですよ。ただ今後、処方箋を書かれる時に我が社のことを思い出して頂けたら、と・・・。
そうそう、もうすぐ我が社から新しい睡眠薬が出るんですよ。ぜひ・・・」
「今はそんな話聞きたくないわ!」
 私は声を荒げてしまう。
落ち着け、落ち着くんだ。この男、脅迫なんて真似をするからには相当切羽詰っているはず・・・冷静に対処しなければ、下手をすれば地獄に道連れにされてしまう。
 私よりも小柄なこの男が、今は目の前に立ちはだかる巨大な悪魔のように思えた。
 落ち着け・・・私は自分にそう繰り返す。そして心の中で深呼吸してから口を開いた。
「わかったわよ・・・。で、金額はいくらなの?」
「200万ほど」
 佐藤は平然と答える。
「200万って・・・そんな大金すぐには用意できないわ」
「これはこれは、クリニックの院長ともあろうお方が」
 佐藤はまた憎らしいうすら笑いを浮かべる。
「あなたが思ってるほど華やかな業界じゃないのよ!」・・・そう叫びたくなる気持ちをグッと抑え込み、私は会話を続けた。
「それで、いつまでに用意すればいいのよ」
「そうですね、実は急ぎで必要でしてね・・・できれば明日お願します」
「明日って・・・土曜日じゃない。・・・いったいどこでお金を渡せって言うのよ。目立つ場所で受け渡しなんてごめんよ」
 そこで佐藤はカバンから1枚の紙を取り出し、私の前に置いてから答えた。
「こういうのはいかがですか?明日、ムナカタグランドホテルでわが社主催の学術講演会があります。全国から数百人の先生がたをお招きして行なう、かなり大規模なものです」
 佐藤の言葉を聞きながら私はその紙に目を通す。
「先生、そこにも書いてありますように明日の講演会は第1部と第2部に分かれています。第1部は午後3時から5時までの特別講演。そしてその後1時間休憩を挟んで6時から9時まで第2部として3つの講演があるんです。
僕は当日スタッフとして第1部だけの担当ですから、仕事は5時で終わりなんです」
 私は口を挟まず佐藤の言葉を聞く。
「それで、その日僕はそのムナカタグランドホテルに部屋をとっていますから、その部屋でお金を受け取るというのはどうでしょう。部屋の中なら誰かに見られる危険もないですし・・・よかったらついでに学術講演会に参加されたっていい」
 落ち着け、今この男の言葉を否定したり反論を唱えても意味がない。すべて受け入れて・・・受け入れたフリをして・・・その上でこの状況を打開する最善の策を考えなければ。
 私は感情を出さずに言う。
「・・・時刻は?」
「そうですね、第1部は5時までですから・・・まあ後片付けなども考慮して・・・5時半、いや余裕を見て5時40分に僕の部屋でってことにしましょう。その時刻なら確実に部屋に居ます。部屋は1215号室ですから」
「・・・わかったわ。でもこちらが要求に従ったら・・・」
「ええもちろん、この写真のことは僕の胸にしまいます」
「・・・わかったわ。明日、ムナカタグランドホテルね。1215号室に午後5時40分にお金を持っていくわ」
「よかった・・・ありがとうございます先生」
 そこで佐藤はほっとしたような表情を見せ、ようやくあの写真が表示された携帯電話をスーツのポケットにしまう。そしてカバンを手にすると椅子から立ち上がった。
「先生、今後ともよろしくお願い致します。それではまた・・・明日」
 そう言って佐藤は一礼をし、まるでいつもの面談が終わった時のように診察室を出て行った。私はその間何も言葉を返さず、ただ佐藤の後姿を見ていた。
やがて佐藤がクリニックから出て、車で走り去る音が聞こえてくる。

 私はまるで何かから取り残されたようにしばらく心も体も動かなかった。静寂に包まれた診察室にはただ壁の時計の音だけが響いている。まるで今の脅迫が夢だったような気さえしてくる。しかし、あの男の悪趣味な整髪剤の残り香と私の額の脂汗が先ほどの出来事がまぎれもない現実であることを告げていた。

 ・・・考えろ、考えるんだ。この状況を打開する最善策を。
 私は佐藤が残していった明日の学術講演会の案内を見ながら必死に知略をめぐらせた。
 考えろ、考えるんだ。ここは診察室、精神を集中するには丁度いい。
やがて壁の時計が午後7時を告げる。そして、私の心の中には今まで経験したことのない感情が膨れ上がってきていた。
 ・・・何だこの感情は?今までに感じたことのない・・・私の知らない感情。まだこの感情に名前を付けることはできない。それよりも考えるんだ、打開策を・・・明日までに・・・!



 土曜日、午後5時15分。私はムナカタグランドホテルに到着した。学術講演会の会場は2階の『フェニックスホール』、確か300人は入る大きな会場だ。私はホールの入り口が見える少し離れた位置のソファに腰を下ろす。
入り口周辺には人だかりが出来ている。おそらくは第1部の特別講演を聴いて出てきたドクター、あるいは6時からの第2部に参加するドクター達だろう。受付には何人かMRの姿も見えるがあの男はいない。
私は昨夜考えた計画を頭の中で思い返しながら、会場に出入りする人間を見つめていた。
 午後5時30分、あの男が出てきた。同僚たちに何やら言葉を掛けながら会場を離れ、やがてエレベーターに乗り込んでいく。おそらくそれに乗って自分の部屋に戻ったのだろう。私も行動を開始する。

 ソファを立った私は、エレベーターホールを避けてフロアの隅にある非常階段に向かう。このホテルは今までに何度か利用したことがあるから構造はおおよそ把握している。製薬会社の講演会だけでなく披露宴や記者会見も行なわれる老舗のブランドホテルだ。昔ながらの構造のためか1階から最上階まで繋がる非常階段があり、一般にも開放されている。
目的の12階まで階段を駆け上がるのは骨が折れるが、エレベーターを使えばおそらく監視カメラに映ってしまう。大丈夫、学生時代の陸上部の練習メニューに比べたらこのくらいたいしたことはない。
私は一気に2階から12階まで駆け上がった。予想どおり階段を使っている者は他におらず、誰ともすれ違うことはなかった。

 12階に到着する。ここは客室フロアだ。廊下に人影はなく静寂に包まれている。普段は不便さも感じるこの高級ホテルならではの薄暗い照明も、人目を避けたい今の私には好都合だ。私は足早に1215号室を目指す。
・・・あった。部屋番号を確認する・・・間違いない。
私は息を整えてから軽くノックした。大丈夫、気持ちは落ち着いている。
「はい、どなたですか?」
 ドアの向こうからあの憎らしい声がした。私は腕時計を見ながら答える。5時40分、時間通りだ。
「飯森よ」
 私の言葉の後数秒を置いて、ロックが解除される音、そしてドアが開き佐藤が姿を現した。
「どうぞ先生、お待ちしてました。お入り下さい」
 佐藤はスーツの上を脱ぎ、ネクタイをゆるめたワイシャツ姿だった。この男の部屋になど入りたくはないが、廊下でお金を受け渡すわけにもいかない。私は黙って部屋に入った。
部屋は1人用としては十分な広さのあるシングルルームだった。バスルームのドアを通り過ぎると右の手前にベッド、正面奥にはソファとテーブルの簡単な応接セットまで備え付けてある。
「それで先生、持って来ていただけましたか?」
 佐藤は部屋の中央で振り返り、あのうすら笑いを浮かべてそう言った。私は黙ってうなずくと、コートの左ポケットから封筒を取り出し佐藤に渡す。
「・・・200万よ」
「ありがとうございます。あらためさせて頂きますね」
 佐藤はそう言うと奥のソファに腰掛け、慣れた手つきでお札を数え始めた。部屋には空虚な沈黙が訪れる。佐藤の向こうに広がる大きな窓からは、晩秋の夕暮れに染まる高層ビルが紫色の雲の下でその虚栄をたたえていた。・・・もうじき日が暮れる。

この男の悪趣味な整髪剤の香りが気になり始めた頃、佐藤はお札を封筒に戻し立ち上がった。
「確かに200万円、確認致しました。ありがとうございます」
 その憎憎しい口調に怒りがわいてくるが、私はそれを抑え込みながら言う。
「じゃあ・・・約束は守ってくれるんでしょうね?あの写真を・・・今すぐ私の目の前で消去して」
 そこで佐藤は鼻で笑い、私の眼を見ながら答えた。
「消去って・・・それは出来ませんよ先生。だって、要求はもう1つあったでしょう?」
 ・・・やはりこの男、こうきたか。
「先生がこれから先・・・わが社の薬をちゃんとご処方してくれさえすれば、あの写真を誰かに見せることはありません。
でも・・・使う量が少し足りないなあって思ったら・・・また見せに行くかもしれませんよ」
 正直、今すぐつかみかかって殴りつけたい衝動にかられた。しかしそれをしてしまってはすべてが台無しだ。私は感情を抑える。大丈夫、感情を抑えることには慣れているはずだ。
「先生、あの写真は念のための保険です。それでは・・・200万円ありがとうございました」
 佐藤はそう言って目で私に退室を促した。私はただ黙ってそれに応じる。
佐藤がドアを開ける。私が廊下に出るのを見届けてから、佐藤は「それじゃあまた」と言い残して部屋の中に消えた。ドアの向こうからは鼻歌が聞こえてくる。
 私の心の中でまたあの感情が膨らんでくるのがわかった。そう、昨夜も感じたあの感情・・・今私にはこの感情の名前がはっきりとわかる。
・・・『殺意』だ。
私にとっては始めての感情・・・そうか、これがそうか。
 私は深呼吸して決断する。・・・実行するしかない、計画を。

 午後5時55分。私は再び2階に戻った。そしてフェニックスホールの前の受付に立つ。
「あの、アカシアメンタルクリニックの飯森です。講演会の受付をしたいのですが」
 私のその言葉に女性MRが笑顔で答える。
「はい、ありがとうございます。それではこちらにお名前をお願い致します」
 私が記入したのを確認して、彼女は私に会社名が入ったノートとおそらくはボールペンの入った小さな箱を渡してくる。これは製薬会社の講演会ではいつものこと。
「本日は講演される先生方のご意向により、お手元の資料はございませんのでご了承下さい」
 これも時々あること。彼女に「わかりました」と答え私は会場に入る。
もう開始直前と言うこともあってほとんどの者が着席していたが・・・それにしてもすごい人数だ。昨日佐藤が言っていたようにかなりたくさんのドクターが参加している。ざっと見ても300人前後。よし・・・これも計画通り。
 私はそんなことを考えながら、出来るだけ目立たない席・・・そして抜け出しやすい隅の席を探す。
おおよそ期待通りの席に着いたところで、会場の照明が落ちた。そして、製薬会社の挨拶が始まる。
「皆様、本日はお忙しい中、全国よりたくさんのご参加をいただきまして誠にありがとうございます。それでは第1部の特別講演に引き続き、ここからは第2部と致しまして3人の先生方にご講演をお願いしております」
 そんないつも通りの流れ。やがてマイクは座長へと渡され座長が最初の講演をするドクターを紹介する。それを聞き流しながら私は持ってきたボイスレコーダーをバッグから取り出し録音を開始する。
・・・落ち着け、大丈夫だ。私はその言葉を心の中で繰り返した。
やがて座長に紹介されたドクターが壇上に上がり、講演が始まる。正直今は講演の内容など頭に入らない。私はバッグからメガネケースを取り出し、半開きにしたそれにボイスレコーダーを入れて机の上に置く。
大丈夫、録音はちゃんと作動している。私は頭の中でもう一度計画を確認していく。

 6時55分。1つ目の講演が終了し会場が明るくなる。公演中映し出されていた資料のスライドも消えた。そこで製薬会社からのアナウンスが入る。
「それでは皆様、ここで5分程度のトイレ休憩となります。おトイレは会場を出られて左手となっております」
 トイレ休憩が挟まれることは、昨日佐藤にもらった案内にも書いてあった。しかもこれだけの人数だ、必ず複数の人間が席を立つはず。
私の予想は的中した。少なくとも十数名の人間が出口に向っている。私はボイスレコーダーがちゃんと作動していることをもう一度確認し、バッグを残して席を立った。
頼むぞ、ボイスレコーダー。しっかり私のアリバイを作ってくれよ!
 私はトイレに向かう者たちにまぎれて会場を出る。もちろん行き先はトイレではない。
私は先ほどの非常階段に向かった。これから先は時間との勝負だ。私は再び12階を目指して階段を駆け上がる。

12階に到着する。薄暗い廊下にはやはり人影はない。私は足早に1215号室に向かう。ドアの前に立ったとき、腕時計の時刻は7時02分、今頃会場では2つ目の講演が始まっている頃だろう。
私は息を整えると、先ほどと同じようにノックした。
「・・・はい、どなた?」
 あの男の声。私は出来るだけ落ち着いた声で答える。
「飯森よ。・・・実は、追加のお金を持って来たから・・・もう一度話がしたいの」
 ドアの向こうからは返答なし。大丈夫、あの男ならきっと・・・。
20秒ほどの沈黙の後、ロックが解除されドアが開いた。
「どうしました先生?・・・まあいいでしょう、お入り下さい」
 佐藤は相変わらずのうすら笑いで現れ、私を招き入れた。
室内は整髪剤よりも今度はタバコの臭いが気になる。佐藤は先ほど同様に部屋の中央に立ち止まり、私と向かい合う形となった。完全に日も沈み、室内は薄暗い。
「それで先生、追加のお金って・・・」
「あの、もっとお金をあげるからやっぱりあの写真を消して欲しいのよ」
 私の言葉に佐藤は少し考えるようなそぶりで視線をそらす。しかしすぐに又視線を戻して言った。
「まあ・・・考えて見ましょうか。で、おいくらほど持ってこられたんですか?」
「今、渡すわ」
 私はそう言ってコートのポケットに手を入れる。しかし先ほどとは違い今度は右のポケットだ。そして、つかんだ物も封筒ではない。そう・・・それはスタンガンだ。
佐藤は受け取ろうと右手を差し出して近づいてくる。
 私はその瞬間すばやくポケットからスタンガンを握った右手を出し、それを佐藤のスーツの左胸に押し当てる。佐藤は一瞬驚いたような顔をしたが私はためらわずスイッチを入れた。

 バシュッ!

 まるでショートしたかのような音がした。その瞬間佐藤は後ろから床に崩れ落ちる。床に後頭部や体を打ちつけただろうが・・・特に声もださなかった。
私はスタンガンをポケットにしまい佐藤を揺さぶってみるが応答はない・・・完全に気を失ってしまったようだ。
よし、ここまでは計画通り。大丈夫、時間は十分にある。
私は次の行動に移った。まずコートを脱ぎ両手に手袋を装着する。そして意識を失った佐藤の衣服を脱がせ、適当にベッドの上に置く。さらに佐藤をバスルームの浴槽に運んでいく。
・・・重い。
いくら小柄とは言ってもやはり男。しかし大丈夫、このくらい陸上部の筋トレに比べたら・・・。
 私はなんとか佐藤を浴槽に押し込める。まだ完全に気を失ったままだ。よし、これでいい、次はお湯を入れなければ。私は水道のノズルを浴槽に向け勢いよく蛇口をひねった。
・・・冷たっ!
水はノズルからではなく、上のシャワーから発射された。
しまった!私は急いで蛇口を閉める。
くそ、こんなところでこんなポカを・・・。落ち着け、大丈夫、大丈夫だから。
私は自分にそう繰り返しながらノズルとシャワーの切り替えスイッチを動かし、今度こそと蛇口をひねる。よし、ノズルから浴槽に向って勢いよく水が噴出していく。
適当に水温を調整し、浴槽には順調にお湯がたまっていった。
そこで私はバスルームの大きな鏡に写った自分を見る。ずぶぬれ・・・とまではいかないが髪と服が濡れてしまった。この状態で歩いていたらさすがに目立ってしまう。
・・・どうする?ここにあるタオルを使うわけにもいかないし・・・ドライヤーもあるが、このホテルではドライヤーは最初袋に入っている。使用するためには開封しなければならない。
時刻は7時20分。まだ時間はあるがのんびりはしていられない。私は意を決してドライヤーを開封する。そしてその袋とドライヤーのもち手を佐藤に握らせて指紋を残す。
大丈夫、大丈夫だ。私はコードを壁のコンセントに挿し込み、濡れた髪と服を乾かし始めた。
浴槽でだんだん水没していく男とその横で髪を乾かす女・・・客観的に見たらなんて不気味な光景だろう。

 7時30分。髪と服がおおよそ乾いた。よし、まだ間に合う。浴槽はもう半分くらいまでお湯がたまっている。私はバスルームを出て部屋の中を見回した。
どこだ・・・どこにある?
・・・あった!佐藤の携帯電話は充電器に繋がれテーブルの上にあった。私はそれを手に取る。
よし、ロックはかかっていない。すばやく画像フォルダを開いてあの写真を探す。そしてそれはすぐに見つかった。昨日も見せられたあの写真・・・男性と腕を組んで笑って歩いている私の写真・・・。
・・・愚かだ。だが今は感傷に浸っている場合ではない。私はそれを消去して携帯電話を戻す。次にすることは・・・そう、あれを取り戻さなければ。
私は佐藤に渡した200万円が入ったあの封筒を探す。脱がせた服のポケット・・・ない。入っているのは名刺や財布、USBメモリーだけだ。
おかしい、じゃあ・・・。
 私は部屋中を探す。しかし見つからない。ソファやテーブルの上はもちろん、カバンの中も机の中も探したけれど見つからない。
おかしい、渡してから1時間しか経っていないんだ。封筒は必ずこの部屋のどこかにあるはずだ。私はそれこそ床に這いつくばって探した・・・しかし見つからない。

 ・・・ザバッ!
 その時浴槽からお湯があふれる音がした。私は驚いてバスルームに戻る。
 ・・・少し焦ったが、佐藤が息を吹き返したわけではなかった。お湯が浴槽に一杯になってこぼれたのだ。佐藤は完全に浴槽の中に沈んでいた。
 私は自分がまた濡れないように注意しながら蛇口をしめる。そして横目で佐藤を見る。
・・・自業自得、脅迫なんて愚かなことをしたこの男が悪いんだ。
 私は再びバスルームを出てそっとドアを閉める。あと残る問題は・・・そう、200万円の回収だ。腕時計の時刻は7時45分。くそもうあまり時間がない。私は急いでもう一度佐藤の衣服、持ち物、そして部屋の中を探した。しかし・・・見つからない。
 時刻は7時50分をまわった。ダメだ、これ以上は会場に戻れなくなってしまう。私はもう一度部屋を見回し自分の痕跡がないことを確認すると、コートを手にして足早に部屋を出る。そして薄暗い廊下を抜け非常階段に向った。

 7時57分。私は2階の会場入り口に辿り着く。2つ目の講演が終わり、ちょうど2回目のトイレ休憩で人が出入りしているところだ。
・・・よかった、間に合った。私はそれにまぎれて会場に入り先ほどの席に戻る。ボイスレコーダーはちゃんと録音を続けていた。
 8時になり再び証明が落ちる。座長が3人目の講演者の紹介を始めた。
「皆様、本日は土曜の夜という大切なお時間にお集まり頂き本当にありがとうございました。本日最後の講演は、はるばる北海道からお越し頂きました、江別すずらん病院院長であられる伊藤正敏先生です!」
 こうして3人目の講演が始まった。正直とても内容は頭に入らない。まあいいや、それはあとでボイスレコーダーでゆっくり聴こう。それにしても・・・。
 私はスライドをぼんやり見ながら考えていた。あの200万円はどこに行ってしまったのだろう・・・。
そして、心よりもまず体が今自分のしてきたことを実感し始めた。手足が小さく震え始める。
私は罪を犯した。けして許されない罪を。それを正当化するつもりはない。ただ・・・今のこの感情は何だろう?殺意が解き放たれた後の心は、まるで空っぽになってしまったかのうように・・・何も感じない。自分で自分の気持ちが分からない。ただ・・・体だけが小さく震えていた。

 午後9時。講演会は無事終了した。私はとなりの会場で行われた情報交換会・・・つまりは打ち上げに少しだけ顔を出す。そして適当に何人かと話をしてから帰路に着いた。
 大丈夫、すべてうまくいく。うまくいったはずだ。あの男はホテルの風呂で自分で溺れた。警察がそう判断してくれれば・・・私への脅迫も200万円の行方も調べられることはない。大丈夫、大丈夫だ。

 私は自宅のマンションに戻ると、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
ああ疲れた・・・本当に。私はそれを一気に流し込むとソファに沈み込む。
時刻は11時少し前・・・長かった1日がもう少しで終ろうとしている。

■警視庁刑事・ムーンの視点 その1

私の名前はムーン、警視庁捜査一課の刑事である。もちろんこんな名前の日本人がいるはずもなく、『ムーン』というのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが警視庁捜査一課は『ミット』と呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司は私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。

 日曜日、時刻は午前0時半をまわった。現場はムナカタグランドホテル1215号室のバスルーム、この部屋に宿泊している男性が溺死体で発見された。ここに警察が到着したのは今からおよそ1時間前・・・一通りの現場検証と監識作業が終わり今現場に残っているのは私1人。・・・さて、そろそろ来るはずだ。

「やあムーン、どんな感じだい?」
 その低くてよく通る声で姿をみせたのは・・・そう、『カイカン』なるニックネームを用いる私の上司である。
「警部、相変わらずの社長出勤ですね」
「まあそういわないで、君からまとめて話を聞く方がよく頭に入るんだよ」
 私の嫌味をものともせず警部は室内に入ってくる。その出で立ちはハットとコートを着用し、しかもどちらもボロボロ、長い前髪は顔の半分を覆っている。普通の人間が見たら悲鳴を上げてもおかしくない風貌だが・・・慣れというのは恐ろしい。この変人の下についてもう何年にもなるのだから。
警部はいつものように質問を始める。
「それで・・・亡くなられたのは?」
 私は手帳を広げここまでの現場検証で分かった事を説明していく・・・これもいつものこと。
「はい、亡くなられたのは今夜この部屋に宿泊していた佐藤利雄さん32歳、『メロディアス製薬』という製薬会社のMRです」
「MRってのは何?」
 警部は室内をキョロキョロ見回しながらそう尋ねる。私はそんな警部の背中を追いながら答えた。
「MRというのは、お薬の情報をお医者さんや医療スタッフに提供したり新しい薬を紹介したりする人のことらしいです。昔はプロッパーって呼ばれてたそうですが、まあ他の業界でいうと外回りの営業マンみたいなものですかね」
「ナルホド、続けて」
「はい、実は今夜・・・正確にはもう昨夜ですが、このホテルの2階でこのメロディアス製薬主催の学術講演会があったそうです。佐藤さんもそのスタッフとして参加していました」
 警部はそこで足を止めて言った。
「製薬会社の学術講演会というと・・・参加したのはお医者さん?」
警部の視線は部屋の奥の大きな窓に注がれている。そこには眠らない町のネオンを写した灰色の闇・・・。私もそちらに視線を向けながら答えた。
「はい、かなり大規模な講演会だったそうで、全国から300人くらいのお医者さんが集まったそうですよ。今回の講演会は第1部と第2部に分かれていまして、第1部が午後3時から5時までの特別講演、第2部が6時から9時まで3つの講演があったそうです。
それで、亡くなられた佐藤さんは第1部のみの担当だったので、第1部が終わった後はこの部屋に戻って休んでいたものと思われます。・・・そしてお風呂に入っていておぼれたものと考えられます」
 警部はそこで室内に向き直りバスルームのほうを見た。私は続ける。
「それで、亡くなられているのを発見したのは佐藤さんの同僚の方です。永島さんという男性なんですが、講演会が全部終わってから一緒に飲みに行く約束をされていたとのことで・・・でも、約束の11時になっても佐藤さんが待ち合わせのロビーに来ないので部屋を訪ねてみたそうです。携帯電話を鳴らしたら室内から音はするのに応答がないので・・・心配になってホテルのスタッフを呼んでドアを開けてもらったとおっしゃってました」
 警部は黙って私の言葉を聞いている。私は警部からの質問がないのを確認して更に続けた。
「その意味ではそのホテルのスタッフ・・・小西さんという女性ですが、この人も第一発見者ですね。浴槽で亡くなっていた佐藤さんを永島さんが発見してすぐ小西さんに伝え、小西さんがホテルの支配人に報告、支配人から午後11時15分に救急に通報がありました。
すぐに救急隊が到着しましたがすでに亡くなられていることが確認され、警察に連絡が入ったんです。私が到着したのは午後11時半過ぎでした」
 警部はそこで右手の人差し指を立て、考えをまとめるようにゆっくりと口を開いた。
「となると・・・死亡推定時刻は・・・講演会の第1部が終わった午後5時から発見された11時までの間ってことかな?」
 私は手帳を確認しながら答える。
「いえ、もっと縮まると思います。佐藤さんは5時半くらいまで後片付けで2階の会場にいたことが確認されています。そして先ほど発見された佐藤さんの携帯電話を確認しましたところ午後7時ちょうどに電話をかけた記録が残っていました。飲みに行く店を予約するための電話だったようです。
・・・つまり、この時刻には生きておられたわけです」
 警部は人差し指を立てたまま黙ってうなずく。私は続けた。
「しかし、8時過ぎに永島さんから何度か電話がかかってきてますが・・・砂糖さんはそれには出ていません。8時以降に届いたメールもすべて未読でした」
「ナルホド・・・素晴らしい、よく調べたね」
 正直警部に褒められるのはあまり得意ではない。私はその言葉には答えず続けた。
「あとこれも確実な話しではありませんが、永島さんが浴槽に沈んでいる佐藤さんを発見したとき、佐藤さんの体をお湯から出そうと持ち上げたそうですが、そのときのお湯はそんなに熱くなかったそうです。まあお風呂の温度は個人差があるでしょうけど、少なくとも沸かしてすぐという感じではなかったそうです。
以上の情報を総合しますと・・・」
 私が言い終わるのを待たずに警部はそこで右手の指をパチンと鳴らして答えた。
「死亡推定時刻は午後7時から8時までの1時間の可能性が高い」
「はい、そう思います。検死の結果が出ればもっと正確になるかと」
「了解、じゃあ次は現場に行こうか」
 そう言って警部はバスルームに向う。私も手帳をしまって後を追った。

「確かに・・・溺死だね」
 警部は浴槽のそばにしゃがみ、遺体に顔を近づけてそう言った。コートが濡れてしまっているがそんなのお構いなしだ。高級ホテルゆえかバスルームは十分にゆとりのある広さで、私も警部の後ろに入って答える。
「警部、遺体には苦しんだ様子も争った形跡もありません。それに後頭部に打撲の跡があります。おそらくは浴槽に入るときか出るときにすべって後頭部をぶつけてしまい、そのまま気を失われたのではないでしょうか」
 警部は遺体をじっと見つめながら「そう・・・そうだね」と小声で呟いた。その後数分間の沈黙がバスルームに流れる。私も警部の肩越しに改めて遺体を見る。
まだ若い・・・私と同世代の男性。きっとこの人は今夜ここで自分が命を落とすなんて考えもしていなかっただろう・・・私がそうであるように、他の多くの人もそうであるように。毎日のようにこんな現場に立ちながら、私はそれがけして特別なことではないと知っている。悲劇はいつ誰にでも起こりうる。それが自分や自分の身近な人であったとしてもなんら不思議はないのだと。
 しかしそれでも・・・やりきれないこの気持ちに慣れることはない。

「現場に何か・・・不審な点はあったかい?」
 警部はそう言って立ち上がり、こちらを振り返った。その言葉で私は我に返る。そうだ、今は情緒に浸っている場合ではない。私は気を引き締めて答える。
「今のところ・・・特には見つかっていません」
「そう・・・」
 警部はそう言うとバスルーム内を見回す・・・と、そこで警部の視線が止まった。
「ドライヤー、コンセントに挿してあるね」
「はい、確かにそれは私も少し気になりました。不審・・・とまではいえませんが、ドライヤーはお風呂から上がって使うものですから・・・」
 警部は鏡の前に置いてあるドライヤーに顔を近づけて尋ねる。
「指紋は?」
「はい、持ち手の部分に佐藤さんの指紋が残っていましたので・・・使用したのは本人かと思われますが・・・」
 警部は黙ってしばらくドライヤーを見つめた後、ゆっくりとバスルームを出た。私もそれに従う。
警部は再び室内に足を進め、ベッドの横で立ち止まった。ベッドの上には衣服が散らかっている。
「これは・・・佐藤さんの服だね。持ち物に何か不審な点はあったかい?」
 私はそこで再び手帳を取り出して答える。
「ええと・・・スーツのポケットには、財布、名刺、あとパソコンで使うUSBメモリーなどが入ってました。携帯電話はテーブルの上で充電器に繋がっていました。いずれも今監識さんが調べています」
「カバンの中身はどうだった?」
「はい、仕事の書類に小さなノートパソコン、着替えなどが入っていましたが・・・特に不審な物は入っていませんでした」
 警部は少しうつむき加減で何かを考えながら私の言葉を聞いていた。わかっている、警部は何か取っ掛かりを探しているのだ・・・これが事故であることを決定するための・・・あるいはそうでないことを疑うための。
私が言葉を終えても警部は黙っている。こんな時は黙って待つのがいつものこと。その間に私なりに考えてみる。
 私の見る限り単純な溺死がもっとも可能性が高い。ドライヤーは多少引っかかるが、事故を否定するものではない。持ち物に荒らされた様子もないし・・・そもそも仮にこれが事件だとして、ホテルの浴槽で溺死を偽装するというのは犯人にとって効率的な計画とは思えない。
 と、そこまで考えたところで警部が口を開いた。
「じゃあ念のため、USBメモリーとパソコンの中身もチェックしておいて・・・不信なデータとかがないか」
 警部はまだ取っ掛かりを見つけられていないように見える。私は「了解しました」と答え、忘れないようにそれを手帳にメモする。
「それじゃあムーン、発見者の2人の話を聞きに行こうか」
 警部は少しだけ明るい声になってそう言った。こんな仕事だからこそ明るさが大切、私も少し元気をこめて答える。
「わかりました!発見者のお2人には別室で待機してもらっています」
「さっすがムーン、お見事!」
 警部はそう言って部屋を出て行く。う〜ん、やっぱりこの人に褒められるのは苦手だ。

 警部と私はホテルのスタッフルームの1つを借りてそこで事情聴取を行った。時刻はすでに深夜1時を過ぎ、都会を行きかうタクシーの音だけが遠くから聴こえてくる。
8畳ほどの広さで窓のない部屋。客室よりも明るい照明の中、その2人は古い机を挟んで警部と私の対面に座っていた。
「まずは・・・永島さんにお伺いします」
 警部がそう切り出す。永島は佐藤と同じくらいの年齢、少し長めの髪と柔らかい顔立ちがやや中性的な印象を与える男性だ。彼は怯えるような面持ちで「はい」と答えた。あんな現場を目にしたのだ、緊張するのは無理もない・・・。
「永島さん・・・あなたと佐藤さんとの関係を教えて頂いてよろしいですか?」
 警部の質問に、彼はゆっくり答えた。
「は、はい・・・。佐藤とは同期入社で年齢も同じだったから・・・入社当時から何かと仲良くしてました。今はお互い別々のエリアを担当するMRでそれぞれ外回りをしてますからなかなか会えなかったんですけど・・・」
 警部が黙って見つめる中、永島は続ける。私も彼の言葉に集中する。
「それで、今日の講演会ではひさしぶりに一緒に仕事をすることになったんで・・・久し振りに飲もうってことになったんです。私は第2部の担当で、第1部担当の佐藤とは入れ替わりだったんですけど・・・だから、全部が終わる11時にロビーで待ち合わせをしてました」
「確か講演会が終わったのは午後9時と伺いましたが?」
 警部は感情のない声でそう尋ねる。永島はさらに緊張を強めて答えた。
「あ、はい、そうです。でもその後9時から情報交換会といって・・・別室でドクターの皆様の簡単な立食の打ち上げがありましたので・・・。それが終わるのが10時過ぎ、後片付けも考えて11時に約束しました」
「・・・ナルホド」
 警部はそう言って私のほうを見る。私は先ほど現場の客室を出た後で監識から戻ってきた佐藤の携帯電話を取り出した。警部は私が持っているそれを指差しながら質問を続けた。
「これは・・・佐藤さんの携帯電話なんですが、午後8時以降に何度かあなたから着信があります、メールも。これについて教えて頂けますか?」
「は、はい・・・」
 永島は思い出しながらのように順を追って答えた。
「実は第2部の最中に1人スタッフが体調不良で早退しまして・・・。それで、情報交換会の時の人手が足りないかもしれないから佐藤を呼ぼうと思ったんです、あいつがこのホテルに泊まっているのは知っていましたから。
でも、何度電話しても出なくて・・・メールも帰ってこないし。その時から少しおかしいとは思っていたんですけど・・・。でも講演会の最中に抜け出して確かめに行くわけにもいきませんし・・・」
 警部は黙って永島を見ている。ここでも探しているのだ・・・取っ掛かりを。永島は続けた。
「それで、11時の待ち合わせにもやっぱり来ないんで、部屋まで行ったら・・・あんなことに・・・」
 永島はそこで目を閉じ下を向いた。警部はその様子を見て一度永島への質問をやめ、今度は1つ席を開けて彼の隣に座っているホテルスタッフの小西のほうを見た。彼女はずっと視線を落としていたが、そこでゆっくり顔を上げた。その瞳には明らかな不安の色が浮かんでいる。
小西は20代後半の女性・・・接客業ゆえか化粧も髪形も相手に不快感を与えないように適度に抑えられている。もちろんこの時刻だ、折角のメイクも疲労の色に負けてしまっているが。
「小西さん・・・あなたは永島さんに呼ばれて1215号室にいかれたんですね?」
 警部はそう尋ねる。彼女は警部の風貌に明らかに猜疑心を向けていた・・・これもまあ無理もない。
「は、はい。メロディアス製薬さんには今までにもお世話になっていまして、な、永島さんとも面識がありました」
 彼女の声は消えてしまいそうなくらいか細い。警部は質問を続ける。
「亡くなられた佐藤さんとは・・・面識はありましたか?」
「直接お話したことはありませんが・・・何度か当ホテルをご利用されたことはありましたので・・・お名前は存じていました。講演会の会場でもお見かけしました」
「そうですか・・・」
 そう言うと警部は少し優しい口調になった。
「小西さん、お辛いとは思いますが発見された時のことを教えて下さい」
「は、はい・・・」
 彼女は消えそうな声をなんとか絞り出すように答えた。
「じゅ、11時過ぎに永島さんに呼ばれていくと・・・部屋の中から携帯電話が鳴る音はするのに何度呼んでも返事がありませんでした。そこでマスターキーでドアを開けて、永島さんが中に入りました。そこで永島さんがバスルームの佐藤さんを見つけられて・・・」
 彼女の声はどんどん小さくなっていく。
「わ、私は怖くてちらっとしか見てないんですけど、永島さんに佐藤さんがお風呂で溺れてるって聞いて、すぐに支配人に連絡して救急車を呼んでもらいました」
「そうですか・・・ありがとうございます」
 警部はそう言ってそこで少し間をおいた。室内には再び遠くのタクシーの音が届く。彼女が落ち着くのを待って、警部は質問を続けた。
「もう少しだけお聞かせ下さい。ここのホテルの客室はオートロックですよね?」
「はい」
 彼女の声はやはり小さい。
「あなたが1215号室に入られたとき、ドアの内側の掛け金は掛かってなかったんですよね?」
「・・・はい」
「あと、これまでにこのホテルでこのようなバスルームでの事故はありましたか?」
「・・・な、ないと思います」
 警部はそこで彼女から視線を外し再び永島のほうに戻した。彼女はほっとしたようにまたうつむく。
「永島さん・・・よろしいですか?」
 警部にそう言われて永島はまた緊張した面持ちで目を開いた。
「はい、だ、大丈夫です」
「お辛い時にすいません・・・この佐藤さんの携帯電話なんですが・・・」
 警部は私の方に手を伸ばす。私がそれを渡すと警部は永島に見えるように画面を向けた。
「このスケジュール帳のページなんですが、会議や出張などのほかに、色々な人の名前がたくさん毎日書き込まれています。これは・・・」
「それはドクターとの面談のアポイントでしょう。私たちMRはアポを取ってから、ドクターのもとに行きますので」
「そうですか・・・こんなにたくさん会われるんですか?」
「これでも少ないくらいですよ。できるMRは1日に数十人のドクターと面会してる者もいます」
 永島に少し冷静さが見られてきた。そこで警部は携帯電話の画面を更に永島に近づけて尋ねる。
「ここを見てください。今日・・・というか正確には昨日の予定ですが、午後3時からこのホテルで講演会、というのはわかるんですが・・・」
 そう、それは私も先ほど監識から戻ってきた携帯電話を見ていて気がついたこと。私は警部の質問に集中する。
「講演会、と書いてあるその後ろに英語大文字で『I・U』と書いてある・・・これは何かおわかりですか?」
 永島はしばらく黙って考えていたがやがて画面から顔を離して答えた。
「すいません・・・思い当たりません。スケジュール帳を見る限り仕事の予定ばかり書いてありますからこれもそうだとは思うんですけど・・・」
「そうですか・・・『I・U』って一体何でしょうね」
 警部はそう言って携帯電話を閉じた。しかし、残念そうでありながらも警部の口ぶりにはどこか意欲のようなものが感じられる。そう・・・つかんだのだ、取っ掛かりを。警部はそこで静かに言った。
「それでは永島さん、小西さん・・・ありがとうございました。また何かあればお伺いしますので本日はゆっくりお休み下さい」

 午前1時半。2人が去った後も警部はそこに座ったままでいた。口にはコートから取り出されたおしゃぶり昆布をくわえている・・・これも一般的にはおかしな行動だが警部にとっては普通のこと。この人の不可解な言動にいちいちツッコミを入れていたらきりがないので私は特に何も言わない。
 警部が考えをまとめるのを少し待ってから私は口を開く。
「警部、これからどうされますか?」
 警部はそこで昆布を飲み込んでから私の方を見ずに答えた。
「正直・・・まだ事故か事件かわからないけど・・・いくつか君に頼みたいことがある」
「はい、何でしょう」
 私は手帳を取り出しメモの準備をする。
「まず1つ目は、監視カメラのチェック。明日でいいからさっきの小西さんと一緒にホテルの監視カメラを見ておいてほしい・・・特に死亡推定時刻前後に12階に出入りした人がいないかどうか」
「わかりました」
 私が書き留めるのを待って警部は続ける。
「2つ目は、監識さんに頼んでもう一箇所指紋を調べて欲しいところがある。それは・・・」
 警部が告げた場所は非常に細かい、しかし事件性の有無を判定する上で非常に重要な場所であった。私は忘れないようにしっかりメモする。
この人がどんなに変人でもそのもとにいたいと思うのは、着眼点を学ぶとてもいい勉強になるからだ。くやしいが、警部のそれは何度も私を成長させてくれた。
「そして3つ目は、死亡推定時刻がはっきりしたら永島さんと小西さんのアリバイも確認しておいて」
警部は少し厳しい口調でそう言った。そう、どんな可能性も疑わなければならないのが私たちの仕事・・・私は「はい」と答えそれもメモする。
「そして4つ目は、さっきも言ったけど・・・」
「パソコンとUSBメモリーのチェックですね?」
 私がそう答えると警部はこちらを向き、「その通り」と微笑んだ。
「警部はこれから何をお調べになるんですか?」
 警部はそこで先ほどの携帯電話を取り出した。
「『I・U』を探してみるよ」
「何か・・・心当たりでも?」
 佐藤のスケジュール帳に書かれた『I・U』・・・確かにこれはとても気になるところだ。警部はその画面を見ながら答えた。
「もしこれがアポイントの相手のイニシャルだとして・・・何故他の日みたいに普通に名前で書かれていないのか・・・」
「秘密の・・・あまり知られたくないアポイントとか・・・」
 私は思いつきで答える。そこで警部は指をパチンと鳴らした。
「私もそう考えた。そう思って見てみると1人だけ該当する人物がいる。講演会の前日の金曜日、18時に面談のアポが入ってる先生・・・」
 私も画面を覗き込んだ。確かにそこには『I・U』のイニシャルに一致する名前がある。
警部はそこで椅子から立ち上がり、ゆっくりと言った。
「アカシアメンタルクリニックの飯森唄美先生・・・私はこの人に会いに行ってみるよ」

TO BE CONTINUED.

(文・写真:福場将太)

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