コラム

2012年12月★スペシャルコラム「刑事カイカン 支持的受容的完全犯罪(5)〜解決編〜」

■飯森唄美の視点 その6

 診察室は重い沈黙に支配されていた。壁の時計の音だけが響いている。
あの日私が会場にいなかったことを証明する・・・?そんなことが本当に出来るというのか。
私は黙ったままカイカンの次の言葉を待っていた。

「証拠は・・・これです」
 カイカンはそう言って1本のボールペンを机の上に置いた。
「先日先生に頂いたボールペンです」
「はい、あの日の講演会でもらったボールペンです。でも・・・どういうことですか?これは私が講演会に出席していた証拠なのでは・・・」
「フフフ、本来ならそうなのですが・・・」
 そこでカイカンは今日始めて微笑んだ。
「先生、このボールペンにはお薬の名前が書いてあるんですよ」
「それがどうかされましたか?製薬会社のボールペンですから・・・特に珍しいことではありません」
 そこでカイカンはまた右手の人差し指を立てる。
「ところで、私が初めてこのクリニックに来た時のこと、憶えていますか?今週の月曜日です。
確かあの時、先生が書かれた処方がコンピューターに入力出来ないってことがありましたよね?」
 カイカンは一体何を言ってるんだ?何を・・・・証明しようとしているんだ?
「ええと、そうでしたか・・・?」
 私は出来るだけ曖昧に答える。何かの罠かもしれない、言葉には気をつけなくては。
「確か、先生と百木さんが受付のところで話をされていました。それで結局コンピューターに入力出来なくて、別のお薬に変更されていました。
・・・私、あの時待合室にいたのでそのやりとりが聞こえていたんですよ」
 私は黙ったままカイカンの意図を推し量る。しかし・・・わからない。
「どうしてあの時入力出来なかったのか・・・先生おわかりですか?」
「よく憶えていませんが・・・発売前だったとか」
「いいえ、そうではありません。あの時先生が処方されたのはまさにこのボールペンに書いてある薬です。先生が出席された講演会で、新しい睡眠薬として紹介されたメロディアス製薬の薬なんです」
 カイカンの語調が強まる。そう、まさにカイカンの言うとおりだ・・・薬の名前は『バイオスリープ』。月曜日に処方しようとしたらコンピューターに入力出来なかったあの薬だ。まだ発売されていなかったのだと思ったが・・・どういうことだ?
 口ごもっている私にカイカンが言った。
「先生、このボールペンに書いてある薬の名前・・・よく見てみて下さい」
 カイカンは右手の人差し指を立てたまま、ボールペンを左手に持ち私に示した。
「・・・どうです、おわかりですか?」
 ・・・私は言葉を失う。私はずっと勘違いをしていたようだ。そこでカイカンは立てていた指をパチンと鳴らす。
「そうなんです先生、薬の名前は『ヴァイオスリープ』なんです。ハに点々の『バ』じゃなくて、ウに点々の『ヴァ』なんですよ。
 いやあ、先生が勘違いされたのも無理はないですよ。普通、『ばいお』と音で聞いたらバイオテクノロジーのバイオを想像しますからね。
しかし、メロディアス製薬の永島さんっていうMRに教えてもらったんですけど、この薬の名前の由来は『まるでヴァイオリンに誘われたかのように心地良く眠る』ということなのだそうです。だから『ヴァイオスリープ』・・・」
 私は何も答えず得意気に話すカイカンを見ていた。
「メロディアス製薬と言えば、創設者が音楽好きで有名だそうですね。だから、社内に楽団があったり、薬の名前も音楽にちなんでいたりするんです。
それに『永島』という名前も偶然ヒントになりました。同じ『ナガシマ』という名前でも漢字の当て方は色々ありますからね。そんな時にこのお薬の名前を見て、もしかしたら先生は勘違いされていたんじゃないかと思いついたんです」
 カイカンは流れるように話し続けた。そして、そこで表情から笑顔が消える。
「では先生・・・ここが重要なんですが、どうしてこんな勘違いが起こったんでしょうか?・・・その答こそが、あなたのアリバイを崩すことになるのです。
あの日の講演会第2部は、午後6時から3つの講演が1時間ずつ行われました。そしてヴァイオスリープは2つ目の講演で紹介されたのです。その時会場のスライドにははっきりと文字で『ヴァイオスリープ』と出ていたそうです」
 そこまで聞いて、私はようやくカイカンの言おうとしていることを理解した。・・・そういうことか!
「先生、もうおわかりですね?もしあなたがちゃんとその時刻に会場にいて講演を聴いていた、いや、見ていたのならこんな勘違いが起こるはずがないんです。
あなたは後からボイスレコーダーで講演を聴いた・・・だから『バイオスリープ』と勘違いしたんです。つまり、これこそがあなたが2つ目の講演の間、会場にいなかった証拠なんですよ」
 ・・・すごい。素直にそう思う。
 薬の名前の勘違いを見抜き、そこから私のアリバイを見事に崩した。とんでもない想像力だ。正直、精神科医としてカイカンの能力がうらやましくさえある。
 しかし・・・。
 私は冷静に考える。大丈夫、脈も落ち着いてきている。そう、カイカンの推理はすごいが全ては想像の域を出ていない。物的証拠は何一つない!
 私は心の中で深呼吸し、穏やかに言った。
「刑事さん・・・すごいですね。その想像力、精神科医としてうらやましいくらいです」
「先生の不運は私にこのボールペンを渡してしまったこと、そしてそれまでボールペンを箱に入れたままにしておいたことです。開封して薬の名前を見ていれば、こんな勘違いは起こりませんでした」
「刑事さん、得意気なのは結構ですが、正直私には心当たりがありません。あなたが証拠だとおっしゃる『私が勘違いしていた』なんてこと、今更どうやって証明するんです?」
「フフフ、それが出来るんですよ」
 カイカンは不気味な微笑みでそう言うと、突然後ろのドアの方を向いた。
「いいよ、入って」
 カイカンがそう言うとドアがゆっくり開き、1人の女性が入ってくる。それは・・・先ほど診察を終えた患者・有田だった。
「刑事さん・・・これはどういうことですか?どうして有田さんが・・・」
「先生にはお詫びしなくてはいけません。実は彼女、私の部下のムーン巡査なんです」
「えっ!」
 思わず声が出てしまう。有田さんが刑事?
「彼女が名乗った名前も住所も年齢も、全て潜入捜査のための架空のものです」
 カイカンがそう言うと、有田・・・じゃなくてムーンなる女刑事は「失礼致しました」と頭を下げた。
 刑事・・・そうだったのか。今から思えば彼女の端正な顔立ち、切れ長の瞳は警察官の厳しさを感じさせる。
「ムーン、例の物を」
 カイカンがそう言うと彼女は1枚の紙を取り出した。
「このメモは・・・先ほどあなたが書かれた睡眠薬のリストです」
 カイカンは紙を受け取り、そこに書かれている私の文字を示した。
「先生、ここには『バイオスリープ』と書いてあります。・・・これでも勘違いしていなかったとおっしゃいますか?」

 診察室には再び沈黙が訪れる。
・・・完全に騙された。まさかカイカンがここまでの罠を張っていたなんて。途方もない敗北感が心を埋め尽くす。
 2人の刑事は黙って私を見つめていた。

「随分・・・卑怯な真似をなさるんですね」
 私はようやくそう言葉を搾り出す。それは正直な感想だった。
「申し訳ありません。先生にお会いしているうちに、この人は相手の心を読み自分の感情を抑え込むことが出来る人だと思いました。お仕事柄なのかもしれませんが・・・正直、刑事にとっては強敵です。
 ですから、相手が刑事では絶対に隙を見せないと思いましてね・・・それで部下を潜り込ませることにしたんです」
 ・・・落ち着け、落ち着くんだ。私はそう自分にくり返す。そう、これはカイカンの心理作戦だ。
 敗北感に埋め尽くされた心にまた冷静さが戻ってくる。大丈夫、私の心はまだまだ戦える!カイカンは意外な事実を提示して私を動揺させ、精神的に優位に立とうとしているのだ・・・それにはまり込んではいけない。
「刑事さん・・・」
 私は少し微笑んで口を開く。
「確かに有田さんのことは驚きました。薬の名前を勘違いしていたことも認めましょう。でも・・・だから何ですか?これで私が殺人犯になるんですか?」
 カイカンはそこで「ナルホド」と返す。女刑事はその後ろに立ち、厳しい視線を私に注いでいる。私は続けた。
「刑事さんが証明されたのは、私が講演会を抜け出したのかもしれないというそのことだけです。私が佐藤さんの部屋に行ったという証明ではありませんよね?
それに、そもそもどうして私が製薬会社のMRを殺害しなくちゃいけないんですか?動機がありませんよ」
「動機は・・・不倫です」
 カイカンは低い声でそう言った。・・・まさか、そこまで調べ上げたというのか?
「先生、あなたはおそらく不倫のことで佐藤さんに脅迫された。そう、先週の金曜日の面談の時です。彼はあなたに口止め料を要求したのでしょう。だからそれどころじゃなくなって、いつものレストランに行かなかった。
 ・・・そしてレストランに行く代わりに、あなたは完全犯罪を計画したのです」
「推測だわ!」
 私は声を荒げてしまう。冷静でいなくてはいけないのだが、止まらない。
「刑事さん、勝手なことばかり言わないで下さい。私が脅迫された証拠がどこにあるって言うんです?」
「じゃあどうして200万円を渡したのですか?」
 私の言葉が止まる。そして心臓がまた大きく脈打った。
 カイカンはそこでポケットから1つの封筒を取り出した。それはあの日、まさしく私が佐藤に渡した封筒だ。犯行の後、どれだけ探しても見つからなかった封筒だ。どうしてそれがカイカンの手に・・・?
「これは・・・先生が佐藤さんに渡した封筒ですね?指紋が残っていましたから、照合すればはっきりすると思います」
 カイカンは厳しい口調でそう言う。わからない・・・一体何がどうなってるんだ?
 戸惑っている私に、カイカンは静かに言った。
「それでは説明しましょう。あの日ムナカタグランドホテルで何が起こっていたのかを・・・あなたも知らない真実を」

 カイカンは封筒を机に置くと、再び右手の人差し指を立てて話し始めた。
「先生、あなたは講演会の前に一度佐藤さんの部屋を訪ねましたね。佐藤さんがその時刻を指定したのでしょう。その時にこの封筒を渡したんです。
もしかしたらそこで佐藤さんが脅迫をやめてくれたら、殺人を思いとどまるつもりだったのかもしれませんね。しかし佐藤さんはそんな人物ではなかった。あなたは殺害を決意し、アリバイを作るため一度2階の講演会の会場に向った。
さて、この後・・・あなたも知らないことが起こっていたのです」
 私は黙ってカイカンの言葉に集中する。
「実は6時30分頃、1人の男性が佐藤さんを訪ねてきました。エレベーターで12階に上がって来たところが監視カメラに写っていました。 当初この男性の身元がなかなかわからなかったのですが・・・羅空亜大学病院の上田先生だと判明しました」
 ・・・他のドクターが佐藤を訪ねて来ていた?何のために?
「昨日、上田先生を訪ねて全てを伺いました。上田先生はあの日、佐藤さんから裏金を受け取ったそうです。その見返りとしてメロディアス製薬のお薬を使う約束で・・・」
 ・・・裏金?まさか・・・!
「佐藤さんは営業成績の悪さから会社を追われそうになっていました。たとえあなたから200万円脅し取ったとしても、それだけで会社に残れるわけじゃない。そこで、こんなことを考えたのでしょう。
つまり・・・あなたを脅迫して手に入れたお金を裏金として他のお医者さんに渡す・・・。脅迫と買収で2人のお医者さんを利用すれば、営業成績も一気に伸ばせると考えたのでしょう。
上田先生は少しお金に困っていて、つい佐藤さんの誘いに乗ってしまったとおっしゃっていました。でもやはり良心の呵責に耐えかねて、お金を使うことは出来なかった。だからこうして封筒ごと手付かずで残っていたんです」
 佐藤がそんなことをしていたなんて・・・。まさかあの日、私以外に佐藤を訪ねているドクターがいたなんて。
 カイカンはそこで少し優しい口調になって言った。
「これで、佐藤さんのスケジュール帳にあったメモの謎も解けました。『I・U』はあなたのイニシャルじゃない。『飯森』と『上田』、2人の人間に会うということだったんです」
 ああ、そういうことか。
「それに、上田先生の身元がわかったのも、あなたのおかげなんですよ。確か先生はおっしゃった。医者はたくさんの患者に優しさを注いでいるが、時として患者はそれを忘れてしまうことがあると。1人に気持ちが集中すると、相手が自分のためだけに存在しているように思ってしまうと。
そこでふとひらめいたんです・・・佐藤さんが会ったお医者さんはあなた1人じゃなかったんじゃないかと。それで監視カメラに写った謎の人物も実はお医者さんじゃないかと考えたんです。
そこで前に佐藤さんと同じエリアを担当していた長島さんに確認したら・・・ビンゴでした」
 ・・・カイカンの言うとおりだ。私は佐藤に気持ちが集中し過ぎていたのかもしれない。彼への殺意に捕われて・・・MRは他のたくさんのドクターと取引している、という当たり前のことを忘れていた。
「そして、上田先生にお会いしたことで最後の謎も解けました」
 カイカンはそう言ってさらに話を続ける。
「初めて私が先生にお会いした時、『これは病死なのではないか』という話をしました。憶えてますか?
その時先生はこうおっしゃいました・・・『喫煙は心臓発作のリスクを高める』と。どうして佐藤さんが喫煙者だと思ったんですか?」
 ・・・確かに私はそんなことを言った。どうしてだろう。私は最後の力を振り絞って答える。
「以前に佐藤さんが・・・タバコを吸うのを見たのかしら」
「いいえ、それはありません。MRはお医者さんの前では絶対にタバコを吸わない・・・基本的なことだそうです。それにそもそも佐藤さんは喫煙者ではありません。
・・・それなのにどうしてあなたは勘違いをされたのか?」
 私の頭の中にあの日の記憶が蘇る。確か・・・そう、2回目に佐藤の部屋を訪れた時、タバコの臭いが・・・。そうか・・・あの臭いは・・・。
 カイカンが私の心中を察したように言う。
「そうです、あなたが佐藤さんを殺害に言った時、そこにはタバコの匂いが残っていた。だからあなたは佐藤さんがタバコを吸ったと勘違いしたんです。 実際にタバコを吸ったのは、あなたが来る前に部屋を訪れていた上田先生だったんです。上田先生はお金を受け取るわずかな時間も我慢出来ないヘビースモーカーでした。吸い殻は携帯用の灰皿で持ち帰られたそうです」
 そういうことか・・・。
 今から思えば佐藤を最初に訪ねた時、彼はワイシャツ姿だったのに・・・2回目に訪ねてスタンガンを当てた時はスーツ姿だった。気を使う相手と部屋で会っていたからだと考えればそれも納得がいく。
その時に気がついていればなぁ・・・。やっぱりどんなに冷静なつもりでいても、いつもの私じゃなかったってことか。・・・悪いことは出来ない。

 私はすっかり戦意をなくしてカイカンを見る。カイカンは穏やかに言った。
「先生、何が証明されたかおわかりですか?あなたがタバコの臭いを知っていたということは、上田先生が去った7時以降に佐藤さんの部屋を訪れたということです。その時刻は・・・まさに佐藤さんの死亡推定時刻であり、講演会のアリバイが崩れた時刻です。
計画では佐藤さんを殺害した後、封筒は回収するつもりだったのでしょうが・・・まさか別の人の手に渡っているとは思いませんよね。
 ・・・これでもご自信の犯行を否認されますか?」
「ハア・・・」
 私は声に出して深呼吸する。
動機も明らかにされ、アリバイも崩され、犯行現場にいたことまで証明されてしまった。これでは・・・とても太刀打ち出来ない。
 私はもう一度深呼吸すると、覚悟を決めて言った。
「・・・完敗です、刑事さん。封筒の指紋を照合する必要はありません。全て・・・認めます」
「ありがとうございます」
 カイカンはそう言って微笑むと、立てていた右手の人差し指をゆっくりと下ろす。私も笑顔を作った。
「長い1週間でした・・・。あの時、必死になってその封筒を探したのに・・・見つからないわけですね、フフフ」
 私は無理に笑う。2人の刑事はそんな私を黙って見守っていた・・・優しさの中にほんの少しの哀れみを灯した瞳で。

 ・・・不思議な気分だ。
 犯罪計画は完全に打ち砕かれた。私はこれから多くの物を失うことになるだろう。それなのに・・・妙に落ち着いた気分だ。敗北感も喪失感も・・・あまり姿を見せない。どういう理屈でこんな気持ちが訪れるのか・・・心ってのは本当に不思議だ。
 私はカイカンを見る。もう気を張って言葉を択ぶ必要はない。心のままに話をすればいいんだ。
「刑事さん・・・警察ってやっぱりすごいんですね。この短期間で私の不倫のことまで調べ上げてしまうなんて。もう過去のことだし、私と相手しか知らないことなのに・・・」
「すいません、さっきのはハッタリです」
 カイカンはそう言って照れくさそうな顔をする。
「そんな2人しか知らない事実をすぐに突き止められるほど私は名刑事じゃありません。正直、お相手がどこの誰なのかも見当つきません」
「え?じゃあどうして脅迫のネタが不倫だとわかったんですか?」
「それはですね・・・」
 カイカンはそこでまた右手の人差し指を立てる。
「先生とお会いして、まずすごいなって思ったことがあるんですよ。先生は・・・私の言葉をけして否定されなかった。私がどんな話をしても、必ず『そうですね』と答えて下さった」
「特に意識していたつもりは・・・」
「フフフ、私は今までそんな人に会ったことがなかったんで随分驚いたんですよ。それで少しだけ勉強してみたんです、医学書を読みかじってね。そうしたらわかりました。
・・・『支持的受容的対応』というそうですね。まずは相手を支え受けとめる・・・心の医療の基本姿勢。きっとあなたは普段から無意識にそれを心掛けていらっしゃる」
 私は黙ってカイカンの話を聞く。今は何の不安も感じない。謎を解き明かしていくその言葉が心地良く響く。
「先生は相手の言葉をいつも受け入れていた。でも一度だけそうじゃなかった時があったんです。
 ムーンは私の指示で有田と名乗り、夫に浮気された妻を演じていました。その苦しみをあなたに訴え、あなたはそれを支持し受容していた。しかし、彼女が『夫の不倫相手の女性が許せない』と言った時、あなたはこうおっしゃったんです・・・『人を好きになるのは仕方がない』と。憶えてますか?」
 ・・・そういえばそんな会話もあったような気がする。
「ほとんど無意識だったのかもしれません。でも先生のこの言葉は・・・支持的受容的ではありませんよね?むしろ不倫相手の女性を弁護してます。
いつも患者さんを支持し受容していたあなたの心が不倫相手を支持するように動いてしまったのは何故か?、と考えたわけです。
 心が動く時には、そこに真実があるはず・・・あなたが無意識に不倫相手を支持したということは・・・」
 カイカンはそこでまた立てていた指をパチンと鳴らす。
「お見事です」
 私は心からそう言った。・・・すごい、感服だ・・・カイカンにも、そんな小さな情報をちゃんと伝えていた部下の女刑事にも。
 ふと見ると彼女もカイカンの推理に驚いた顔をしている。フフフ、この先輩じゃあ追いつくのが大変ですね。
「刑事さんならきっとすごい精神科医になれますよ」
「いやいや。それよりも私も質問してよろしいですか?」
 カイカンはそこで少し笑顔を弱めた。
「どうぞ」
「いつか先生にもお話した謎なんですけどね・・・『どうして犯人はこんな時間も手間もかかる方法を選択したのか』、これだけがまだよくわからないんです。
 先生はお医者さんです。その気になれば薬物だって手に入る。脅迫なんてするからには佐藤さんが相当追い詰められていたことも先生ならわかっていたと思います。実際に自殺してもおかしくない状況だったと永島さんもおっしゃってました。
・・・それなのにどうして、溺死を偽装するなんてリスクの高い方法を択ぶれたのですか?」
 カイカンはそう言うと黙って私を見つめる。
「それは・・・」
 私は自分に確かめながらゆっくり答えた。
「それは・・・やっぱり、医者としての最後のプライドですかね。医学を・・・犯罪に利用したくなかったんです。それに・・・精神科医が自殺を偽装するわけにはいきません」
 私がそう答えると、カイカンは「ナルホド」とどこか残念そうに呟いた。
 診察室にはまた沈黙が訪れる。壁の時計はもうすぐ午後7時を回ろうとしていた。

 ・・・あ。
 私は少しずつ心に膨らんでくる感情に気付いた。この感情の名前は・・・『悲しみ』。涙腺もゆるみ始めている。
 私はゆっくり立ち上がった。そして言葉がもれる。
「ああ、どうしてこんなことになっちゃったんでしょうかね」
 カイカンは座ったまま無言の視線を私に注いでいた。そして、私からは涙と言葉が次々にこぼれ始める。まるで心という牢屋から解き放たれたかのように、とめどなく溢れてくる。
「だ、だって・・・不倫や浮気なんていっぱいあるじゃないですか。この世の中はそんなに綺麗じゃないですよね?汚いことなんてたくさんある」  そこで私は涙でグシャグシャのまま無理に笑う。
「私・・・勉強と部活ばっかしてたから、たいした恋愛もしたことなくて・・・。平気なつもりだったんですけど、やっぱり寂しかったんですかね?この歳になって・・・つい小さな誘惑に身を任せてしまった。
 ・・・不倫や浮気なんてそこら中にあるのに、なんで私だけこんなことに・・・」
 情けないことを言っている・・・それはわかっている。でも、涙も言葉も止まらない。誰かに・・・受けとめてほしかった。
 やがてゆっくりとカイカンが立ち上がる。お願い・・・今だけは優しい言葉をかけてほしい。支持して受容してほしい。しかし・・・カイカンは今まで出一番厳しい声で言った。
「でも、あなたは精神科医ですよね」
 その言葉は診察室に重たく響く。その迫力に、私の涙と言葉は止まった。
「唄美先生・・・私は警察官としていくつもの悲劇を見てきました。そしてその悲劇のきっかけは・・・ほんの些細な悪意だったり、ほんのちょっとの裏切りだったりするんです。ほんの小さな過ちが・・・誰かの人生を狂わせ、心に一生消えない傷を残すことがある。先生も、そんな犠牲者たちをここでたくさん見てこられたのではないですか?」
 カイカンはそこで言葉を止め、最後にゆっくりと言った。
「確かに不倫や浮気なんて、珍しくもないかもしれません。でも・・・リスクを知っている人間は、気をつけなくてはいけないのではないでしょうか。
・・・あなたの罪は重いと思いますよ」

 ・・・私は何も言えない。
 そうだ、私はこの世の中の汚さに傷ついた人たちに何度も出あってきたんじゃないか!何が医者のプライドだ。一番大切なことを・・・私は忘れていた。
 少しだけ別の涙が滲む。
私はゆっくり白衣を脱ぎ、椅子の上に置いた。
「・・・ごめんなさい」
 私は小さくそう言い、両手を差し出した。するとその手にカイカンはそっとハンカチを握らせる。
「それじゃあ・・・行きますか、唄美さん」
 そう言ってカイカンは微笑む。その後ろで女刑事が「車を回してきます」と走って行った。
 私はハンカチでグシャグシャの顔を拭きながら言う。
「カイカンさんは・・・厳しいのか優しいのか、それにその格好も・・・前髪も・・・もうわけがわかりません」
「よく言われます」
 と、さらに微笑むカイカン。私も合わせて笑う。
 そしてゆっくり歩き出しながらカイカンが言った。
「実はですねえ・・・一緒にレストランでコーヒーを飲んだあの夜、本当はもっとあなたを追い詰めるつもりだったんですよ」
 私もカイカンの言葉を聞きながら診察室を出る。
「でも、お話しているうちに・・・心が開きそうになっちゃって・・・。心が開いたら入り込まれてしまいますからね、それで慌てて退散したんですよ」
 私はあの夜のことを懐かしく思い出す。そういえば・・・カイカンは何をしに来たのかよくわからないうちに帰ってしまった。
「そうだったんですか・・・。フフフ、少しはいいセン行ってたのかしら」
 そんなことを言っているうちにクリニックの正面玄関に辿り着く。ドアの向こうでは女刑事が車を停めて待っていた。
 玄関のドアを開けながらカイカンが私に言う。
「・・・今、私がどんな気持ちかわかりますか?」
 この1週間の出来事で、私には改めてわかったことがある。私はドアが開くのを待って、自信を持って答えた。
「わかりませんよ。人の心なんてわかるわけないじゃないですか」
 そう、これが真実。ああ、やっと言い切ってすっきりした。
私は振り返らずに足を踏み出す。

THE END.

(文:福場将太 写真:りゅうちゃん)

■あとがき

 随分長いお話になってしまいました。今回の小説のコンセプトはただひとつ、「好きなことをしよう」ということ。これは最近とても強く思うことです。大人になると、自分の立場や色々な影響を考えて何をするにも慎重になってしまう。もちろんそれはとても大切なことなのですが、それと同じくらい好きなことをすることもとても大切だと思うのです。学生時代、勝手に友人を犯人にして推理小説を書いたり、映画を撮ったりしてました。ただ好きという気持ちだけで、それに一生懸命取り組んでいました。仕事でもないのに何かいいアイデアが思いついたらそれをメモしたり、締め切りがあるわけでもないのに徹夜で執筆したり・・・。そんな感覚を思い出したくて、今回久し振りに書いてみたわけです。まあこの10年で頭はとても固くなっていて、全然スラスラいきませんでしたが。微妙にロマンステイストが入ってるのは、もうじき妹が結婚するから・・・そんな影響もあるのかも。

 そんなこんなでもう年末。来年はもっともっと好きなことをしよう、きっとそれが心が元気でいられる秘訣かな。みなさんにとって来年が、そんなトキメキの多い1年でありますように。

平成24年12月4日 福場将太

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