コラム

コラム2015年03月「帳尻合わせ」

 この冬の美唄は本当に雪が少なかった。2月を跳び越して前倒しに3月が来たみたいだった。今月初旬には地面やアスファルトが道に顔を出し、空気も日差しも春めいていた。
 思えばこの冬、「雪が少なくて助かりますね」という言葉を一体何回口にしただろう。診察室での患者さんとの会話でも、タクシーの運転手さんとの会話でも、そしてもちろん職員同士の会話でも、ほとんど挨拶代わりに言っていた気がする。ちょっとした流行語大賞だ。そしてその次のセリフは決まって「後からドバッと降るんじゃないですかね」であった。
 それはこの街に着任して幾度となく耳にしたジンクス、『一回の冬に降る雪の総量は毎年同じ』。つまり前半少なかった冬は後半大雪に見舞われ、前半大雪だった冬は後半穏やかになり、結局合計すれば同じになるというわけだ。まあ迷信みたいな話であるが、多くの市民がこの感覚を持っているため、ある程度経験則に基づくものなのだろうと思う。実際私も今回で9回目の冬だが、確かに毎年この『雪量一定の法則』は成り立っている気がする。天候の神様が帳尻合わせでもしているみたいだ。

 帳尻合わせ…考えてみるとそれはこの地球上のあちこちで見られる現象。人間という生き物も案外これを意識しているような気がする。例えば運のツキの話をしても、「一生分の運を使い果たしたからこれからきっと悪いことが起こる」「前半はついてなかったから後半はきっとつきまくるぞ」なんて言ったりする。「天は二物を与えず」や「禍福は糾える縄の如し」なんて諺も帳尻合わせに通ずるものがある。ドラマや小説を見てもそうだ。新しい出来事が起こった時や新しいキャラクターが登場した時、そのおかげで良いことが起こったら必ずそのせいで悪いことも起こるようになっている。どうも人間というのは嫌なことだらけはもちろん、よいことだらけでも落ち着かない生き物らしい。

 帳尻合わせは心の医療においても大切なこと。「苦労した分少し休もう」「楽してた分少し頑張ろう」というアドバイスはよく行なう。回復するためには適切な力配分がとても重要だからだ。また多くの疾患の引き金になる喪失体験も、ただ失っただけと捉えてしまうと心は大きなダメージを負う。「何かを手放した分、何かを手に入れる」「全ては手に入れられない分、全てを失うこともない」「別れがあるだけ出会いもある」…そんな帳尻合わせを感じられたら心は少し強くなれる。  身体の能力だってそうだ。視覚を失った人間が聴覚や触覚に鋭くなったりする。性格だってそう、誰にでも良い所と悪い所がある。それは神様が人間に施している帳尻合わせなのかもしれない。

 帳尻合わせはもともとはお金の出納帳に対して使われる言葉。お金というものはいくら出せと言われても余裕がなければ出しようがない。大切なのは帳尻合わせ。贅沢しすぎたならしばらくは節約、一生懸命貯金した後は少しくらい贅沢してもバチは当たらない。
 人間関係だってそうだ。おごりっぱなし、おごられっぱなしじゃやっぱり気持ち悪い。迷惑かけたら埋め合わせ、借りはいつか必ず返す、たくさん話を聞いてもらったら今度はこちらが聞いてあげる…一方的ではない持ちつ持たれつの帳尻合わせが大切だ。

 北海道に暮らしていると、人間は自然の中で生かされていることを強く感じる。人為の及ばない大きな流れのようなものがそこにはあり、それを無理に捻じ曲げても必ずどこかで帳尻合わせが起こる。もしかしたらこの地に暮らす人々の心にはそんな感覚が強く寄り添っているのかもしれない。過酷な雪害がある分、大地に潤う水があることを知っている。極寒の冬がある分、爽やかな夏が来ることを知っているのだから。
 よいことばかりあるわけないが、嫌なことばかりも続かない。今がこんなに苦しいのはきっとこれまで楽しいこともいっぱいあったから。今が喜びに満たされているなら、いずれ悲しみに覆われてもきっと乗り越えられる。そんなふうに生きていきたい。

 さてさて美唄の冬もあとわずか、雪量のジンクスはどうなるだろう?

帳尻合わせ

(文:福場将太 写真:カヤコレ)

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