コラム

コラム2017年12月★スペシャルコラム「刑事カイカン 赤い実、15歳の日々(後編)」

*このコラムはフィクションです。

■第六章① ~赤井このみ~

 裏通りに入った瞬間、突然強い圧迫感が顔を覆って息ができなくなった。え、何?
「いいか、声を出すなよ」
 頭の上で誰かが言った。悪魔みたいな恐ろしい声…そこであたしはようやく後ろから手で口を塞がれたんだと理解する。
「お前、俺を見たんだろ?俺があの社長を刺すところを見たんだろ?それで写真に撮ったんだよなあ?」
 …誰なの?…一体何なの、見たとか写真とか?
「そうなんだろ?だったら頷いてみせろ!」
 まくし立てるように怒りを含んだ声は言ってくる。混乱であたしはわけがわかんない。冷凍室に放り込まれたように全身が冷たくなってガクガク震えだす。
 …怖い、怖いよ!助けて、誰か助けて!
 突然恐怖が湧き上がった。頭の中に色々な人の顔が浮かぶ。友達とか家族とか先生とか、そんなに親しくない人の顔までどんどん浮かんでどんどん流れ去っていく。
「おい、どうなんだ」
 …逃げなきゃ。
 ようやくそこに思い至る。そうだ、とにかく逃げなきゃ。自分は今危険にさらされてるんだ。どうにかして逃げなきゃ!
「しらばっくれんのか、だったらこのまま黙らせてやる」
 別の手があたしの首筋に伸びてきた。氷が肌を切ったように冷たい痛みが走る。
 はっとしたあたしは次の瞬間旨ポケットのボールペンを抜き力いっぱいその手に突き立てた。
「うぐあっ!」
 鈍い声が漏れて一瞬顔の圧迫が弱まる。すり抜けるようにそこから逃れるとあたしは振り返らずに全速力で駆け出した。ボールペンが落ちたけどそんなの気にしていられない。
 とにかく逃げなきゃ、できるだけ遠くまで!
 歯を食いしばって走りながら首に触れる。大丈夫、別に切られたりはしていない。体がもつれてあんまりスピードが出ないけど、無我夢中であたしは足を前に出す。呼吸が苦しい。胸が張り裂けそう。でも立ち止まっちゃダメ、何が何だかわかんないけど今は考えるな考えるな考えるな!とにかく逃げるんだ!
 角を曲がると運悪くそこも暗い裏路地、人通りはない。しかも…その先は行き止まり。
「どこ行きやがった、おらあ!」
 後ろで野獣のような叫びが聞こえる。どうしよどうしよどうしよ…!ねえママ、すみれ、助けて。あたしどうしたらいいの?
「なめやがって、どこだあ!」
 すぐそこまで来てる。か、隠れなきゃ!
 あたしは間一髪で大きなポリバケツの裏に飛び込み、膝を抱えてできるだけ体を小さくする。全身が震えてる。ポケットからスマートフォンを取り出すけど指が震えて電源も入れられない。怖い、怖いよ。
「ハア、ハア、どこに隠れやがった」
 荒井息遣いがこの路地に入ってきたのがわかる。足音が一歩ずつ近付いてくる。ダメ、このままじゃ見つかっちゃう…神様!
「おらあ!」
 怒鳴り声と同時にポリバケツが蹴り飛ばされた。心臓が止まる。
 うずくまるあたしを見下ろす灰色の二つの光…血走って見開かれた目はあたしをじっと捕らえている。声が出ない。体が動かない。相手はボソボソ喋ってるみたいだけど全然聞こえない。
 次の瞬間、太い腕が振り上げられた。その手には銀色の棒…ナイフだ、ナイフが逆手に握られてる。
 もうダメだ、あたし…。
 遠のく意識の中で、ナイフが振り下ろされたのがわかった。最後の力であたしはぎゅっと目をつぶる。

 …あれ?痛くない。あたしもう死んじゃったのかな?
 恐る恐る目を開くとそこには…。
「南波先生!」
 思わずそう呼んだ。腰を抜かしたあたしの前にはチャビンが背を向けて立っていたのだ。そしてその向こうには一回り大きな男の影。
「てめえ、何すんだ!」
「そっちこそ、うちの生徒に何をするんだ!」
 二つの怒声が路地に響く。チャビンはナイフを持った男の右腕をひねり上げていた。でも一瞬の隙を突いて相手の巨体がタックルしチャビンがあたしの隣に倒れる。
「先生っ!」
「逃げろ、赤井、逃げろ!」
 土で汚れた顔をしかめながら必死に訴えるチャビン。あたしは体に力を入れてみるがやっぱり立てない。
「お前らあ…」
 血に飢えた獣のように迫ってくる男。その時「やめなさい!」という声がして誰かが後ろから男に飛び掛った。振り乱された長い髪の間からその人の顔が見える。
「ムーンさん!」
 あたしは叫んだ。ムーンさんはナイフが握られた右腕に掴みかかる。同時にチャビンも起き上がり男の両足にしがみついた。
「放せ、放せ、放せえ!」
 獰猛な絶叫。
「いい加減にしなさい、落ち着きなさい!」
「うるせえ、クソ女が!」
 危ない!ナイフがムーンさんの綺麗な顔をかすめて空を切った。
「うおおおお!」
 なんて怪力だろう、男は必死に格闘する二人を払い飛ばしてしまう。ムーンさんは路地の壁に打ち付けられチャビンはまた路面に転がった。みんなが、みんなが殺されちゃう!あたしの体はまだ動いてくれない。あたしは何もできない。悔しさに奥歯を噛みしめた瞬間、大きな音とまばゆい光が乱入してきた。
 …ブガガガガガン!
 耳と目がくらむ。乱暴な運転でミニパトが路地に突っ込んでくる。バケツや空き缶を蹴散らしながら停車すると、間髪要れずに運転席から婦人警官さんが飛び出してきた。その人はしなやかな動きでたった数歩で男の前まで辿り着く。
「お前え!」
 男がナイフを振り上げて迎え撃ったと思った瞬間、世界はスローモーションになった。その巨体はまるで重さがないみたいに宙を舞い、婦人警官さんの細い腕に導かれて大きく弧を描くとそのまま仰向けに地面に叩きつけられた。
「ぐあっ」
 鈍い叫びでまた時間が普通に流れ出す。婦人警官さんは男の手からナイフをもぎ取った。ムーンさんとチャビンも加勢し男を完全に抑え込む。
「放せ、放せ、放せえ!」
 暴れ疲れた男は次第におとなしくなっていく。叫び声が荒い息遣いだけに変わった時、ミニパトの助手席がゆっくり開き、ボロボロのコートとハット姿が暗い路地に現れた。
「みなさん、お疲れ様でした」
 低い声が響く。そして取り押さえられた男の横に立つと、カイカンさんははっきりと言った。
「やはりあなたが犯人だったんですね、淀山さん」
 その時、ミニパトのヘッドライトの逆行の中でカイカンさんの前髪に隠れた右目が光ったような気がした。

「何だよ、お前!」
 また声を荒げて男が言う。
「警視庁のカイカンと言います。先週の金曜日、『セブンファイブフォー』という会社のオフィスで発生した殺人事件を調べています。名越社長を殺害した犯人は淀山さん、あなたですね?」
「まさかあんただったなんてね、釈放するんじゃなかったよ」
 男の右腕を抑えたまま婦人警官さんが言う。男は「は?そんなの知らねーよ」と突っぱねたけど、カイカンさんは右手の人差し指を立てて坦々と語りを続けた。
「いいえ、あなたですよ。氏家巡査が言ったように、昨日通学中の生徒の隠し撮りをして逮捕されたあなたが実は殺人犯だったとは確かに意外でした」
 …え?
「淀山さん、どうやってあなたを犯人だと特定したかご説明しましょう。先週の金曜日の夜、名越社長は忘年会で部下と居酒屋にいましたがクライアントからの急な問い合わせで一人オフィスに戻りました。そこには金庫のお金を盗むために入り込んだ泥棒がいて、鉢合わせになった名越社長は泥棒と格闘し、逃げようと背中を向けたところを後ろから刺されてしまいます。そして床に倒れた名越社長は泥棒の正体を示すため血文字でダイイング・メッセージを書き残したのです…片仮名でアイウエオと」
「アイウエオ?ふざけんな、どうしてそれで俺が犯人になるんだよ?」
「フフフ、私も最初はわかりませんでした。アイウエオをどう変換しても意味のある情報にはならなかった。しかし、ある人が文房具店の験し書きでアイウエオと書いたのを見て思い付きました」
 ちらりとこちらを見るカイカンさん。あたしが書いたアイウエオを見て固まってしまった時の姿が浮かぶ。
「アイウエオは試し書き、つまりこれ自体に意味はなかったんです。では名越社長が伝えようとしたメッセージは何か?オフィスの床にはペンやマジックが散乱していました。そして彼は背中の中央を刺され出血は衣類のせいで広がってはいませんでした。
 …どうだいムーン、この状況の不自然さがわかるかい?」
 男の左腕を抑えていたムーンさんが少し首をかしげる。あたしも考えたけどさっぱりわかんない。
「いいかいムーン?その状況で血文字を書くには指先に血をつけるために何度も背中に手を伸ばさなくちゃいけない。うつ伏せに倒れた上体で、ただでさえ手が届きにくい所にさ。これは瀕死の人間の行動としてはかなり不自然だ。そんな無理しなくてもマジックやペンが手近に落ちて痛んだよ?名越社長はどうしてそれを使わなかったのか…」
 そこでカイカンさんが立てていた指をパチンと鳴らす。
「つまりそれこそがメッセージだったわけさ。ペンやマジックが使える状況なのにあえて血液で字を書いていることが重要だった。だから書く文字は試し書きのように何でもよかったんだ。メッセージは『血で字を書いていること』、つまり『血で字』だ」
 そこでムーンさんは目を丸くする。あたしも心の奥が興奮してきたのがわかった。
「淀山さん、いかがです?名越社長のメッセージは『血で字』、これは『地デジ』、つまりは地上波デジタル放送のことです。あなたにはこの意味がわかるのではありませんか?」
 あれだけ威勢の良かった男は何も返さない。
「名越社長があのオフィスに地デジ対応のテレビを買ったのが今年の夏、それまでは昔ながらのブラウン管テレビが置いてあったそうです。普段社員以外出入りのない会社です。名越社長のメッセージが『血デジ』だとしたら、夏にテレビを搬入した電気屋が犯人だと伝えたかったのかもしれない。
 私はそう考えてテレビを購入した時の保証書を見つけてもらいました。そしてそこから電気屋を特定し、オフィスにテレビを搬入した職員が誰だったのか調べてもらいました。そして…あなただと判明したのです。その一ヵ月後にあなたは勤務態度が問題となって退職していますね」
「俺は悪くねえ!俺を理解しないあいつらがクソなんだ!」
 男の訴えなどまるで意に介さない様子でカイカンさんは続ける。
「犯人が電気屋…そう考えた時に色々な謎が解けました。デジタルテレビを運び込んだ時、当然あなたは古いブラウン管テレビを運び出しましたね。その時に画面に反射して名越社長が金庫を開ける姿が見えたのではありませんか?名越社長は金庫を空ける時は暗証番号を見られないために周囲の視線をとても気にしていたそうですが、まさか搬出中のテレビの画面に映っていたとは思いませんよね。まさにブラウン管ならではです。
 偶然暗証番号を知ってしまったあなたに悪魔が囁いた…もしかしたらお金を盗めるかもしれないと。あなたはこっそりその場にあったオフィスの鍵を持ち出し合鍵を造りました。テレビをセッティングする時の出たり入ったりに見せかければ、鍵をこっそり戻すこともできたでしょう。
 こうしてオフィスの合鍵と金庫の暗証番号を手に入れたあなたは、いつか盗みに入る機会を伺っていた。氏家巡査に聞きましたが、最近は仕事も見つからず困っていたそうですね。そんなあなたは先週の金曜日、ついに計画を実行に移したのです」
 男は口をつぐんだまま固まっている。
「淀山さん、あなたの罪は重いですよ。身勝手な理由で名越社長を殺害しただけでなく、そこにいる女の子も手にかけようとしましたね?オフィスの窓から彼女に犯行を目撃されたと思ったのでしょう?だから名越社長が血文字を書いているのも気付かずにオフィスを飛び出して彼女を追った…幸い彼女はその場を去っていたため難を逃れましたが」
 冷たい手が背中を触ったような気がした。別の恐怖が込み上げてくる…カイカンさんの説明で自分が狙われた理由がようやくわかった。金曜日の夜、あのビルの窓に映った自分に語りかけたあの時…そのガラスの向こうでは殺人事件が起きていたんだ。おさまってきていた震えがまた体に広がる。
「彼女に目撃されたと思ったあなたは、彼女を捜そうとしましたね?制服を見ればどこの中学かはわかります。あなたは通学中の女子生徒を監視しましたが彼女が見つからない…彼女は事件の日から髪の色を変えていたからです。もっとじっくり確認しようと思ったあなたは生徒たちを撮影することにした…それを氏家巡査に見つかったというわけです」
 まさか…まさか…ニュースで見た殺人事件とすみれの話してた盗撮事件がこんな形であたしに繋がってたなんて。
「釈放された後、あなたは生徒の群れの中に赤い髪の少女がいたことを思い出しました。そしてそれこそが自分を目撃した少女だと思い至り、彼女の口を封じようとしたんです」
 そこでカイカンさんの語調が強まる。
「しかし全てはあなたの勘違いです。あのオフィスの窓はマジックミラーで、外から中を見ることなんかできません。彼女はたまたまそこに立っていただけだったんです。わかりますか?彼女には命を狙われなくちゃいけない理由などないんですよ。
 もう言い訳はできませんよ。彼女を襲ったことはここにいる全員が目撃しています。名越社長の事件も、現場を詳しく調べればあなたの侵入した痕跡は必ず発見できます。警察はそれほど無能ではありません。
 よろしいですか?あなたの毎日がどれだけストレスの多いものだったとしても、それで誰かを傷つけていいことにはなりませんよ。ムーン、手錠だ」
 厳しく言い切ると、カイカンさんは男に背を向けた。
「淀山健一、殺人及び殺人未遂の容疑で逮捕します!」
 ムーンさんがそう言って鉄の輪っかを太い腕にかける。男は麻酔でも撃たれたかのようにぐったりとしていた。

 その後、男はムーンさんと婦人警官さんに挟まれてミニパトに乗せられるとそのまま連行されていった。車が発進する前、カイカンさんとチャビンが何か話してたけど、結局カイカンさんもミニパトに乗ったのでチャビンだけがその場に残った。チャビンは車を見送ると、急にこっちを振り返って歩み寄ってくる。その顔は今までで一番怒っている。
「せ、先生…」
「馬鹿野郎、一体何をやってんだお前は。授業をさぼって夜の街なんか歩いてるからこんな目に遭うんだろうが!」
 狭い路地に怒声が響く。
「先生、どうして助けに来てくれたんですか?」
 みっともなく地べたに座ったままあたしは尋ねる。自分でも驚くほどか細い声だった。
「当たり前だろうが!お前の様子が最近おかしいから心配になって捜し回ってたんだ。てっきり悪い連中にそそのかされてるんじゃないかと思って。まさか殺人犯につけ狙われてるとは思わなかったがな」
 そこでチャビンは急に眉毛を下げて優しい顔になる。
「でもよかった…無事で。ほら赤井、立てるか?」
 手を取られてあたしはようやく立ち上がる。あったかくて大きな手だった。そこでチャビンのワイシャツのお腹の部分が少し赤くなってるのに気付く。
「先生、血が…」
「ん?ああ、ナイフがかすってな。大丈夫、たいした傷じゃないよ。赤いのはお前の頭だけで十分だ」
 そう言ってチャビンはあたしの頭をポンポン叩き、「あまり心配かけるなよ」と微笑んだ。その瞬間、胸の奥から暑いものが込み上げて喉が痛くなる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 気付けばあたしはチャビンの胸に顔をうずめてワンワン泣いていた。
「こ、怖かった、怖かったです」
「わかったからそんなに泣くな。さっきの刑事さんに頼まれたんだ、お前を連れて病院に行ってくれってな。どこか怪我してたらいけないから。ほら赤井、聞いてるのか?」
 また頭をポンポンされながらあたしは子供のように泣きじゃくった。あれ?子供のように…って、あたしはまだ子供だった。

 病院の待合室で診察を待っているところにママが来た。ママはあたしを見るなり抱きしめてきた。周りに人がいたのにそんなのお構いなしでよかったよかったって何度も言いながら、あたしの制服を涙でぐしゃぐしゃにした。そういえばママの涙ってすごく久しぶりに見た気がする。そう、きっとパパがいなくなった時以来だ。

 …ごめんね、ママ。

■第六章② ~ムーン~

 淀山健一の聴取はつつがなく終了した。淀山はもう全てがどうでもよくなったように、ふてくされることも取り繕うこともなく、ただただ警部の言葉に頷いていた。彼が焦ってこのみを狙ったのは、彼女がスマートフォンで自分の姿を撮影したと思ったからだった。きっと彼女が時刻かメールを確認するためにスマートフォンを取り出したのをそのように誤解したのだろうと警部は言っていた。

 取調室を出た私は、少し気になって交通課を訪ねる。やはり美佳子はそこにいて、深夜のデスクで一人肩を落としていた。自分を責めているのはその後ろ姿からも明らかだった。
「お疲れ、美佳子」
 二人分の缶コーヒーを置いて私は隣に座る。そして美佳子に感謝を伝えた。
「ありがとね美佳子、何て言うか、その、色々と…」
 確かに美佳子の聴取では淀山が殺人犯だと見抜くことはできなかった。でも美佳子が昨日逮捕してくれなければ淀山はもっと早くこのみを発見していたかもしれない。今夜も美佳子がミニパトで巡回してくれていたからすぐに連絡を取り合って淀山を追い詰めることができた。どちらも交通課の枠をはみ出してまで美佳子が頑張ってくれたおかげだ。
 それに…至らなかったのは私も同じ。美佳子から淀山が電気屋で働いていた話は聞いていたし現場にあったテレビも見ていたのに、それがダイイング・メッセージに結び付くなんて想像もしなかったんだから。
 …そう、私たちは天才じゃない。英雄でもない。己の無力を知りながらただ全力を尽くすしかない存在。
「…ありがと」
 不器用でまとまらない私の言葉を聞き終えると、美佳子はそう言って缶コーヒーを手にした。私も「うん」とだけ返して缶コーヒーを取る。

 その後は二人とも黙ったままコーヒーを口に運んだ。お互い何を考えていたのかはわからない。でももしかしたらあの赤い髪の少女に重ねていたのかもしれない…少しだけ、中学時代の自分たちを。

■エピローグ ~赤井このみ~

 おそらくあたしにとっては人生で一番スリリングでサスペンスだったあの夜から一週間が過ぎた。未だに興味津々のすみれと別れて、あたしは放課後の秘密基地でカイカンさんとムーンさんに会っていた。二人が事後処理のために学校に来るのは今日で最後だって。
「赤井さん、色々とありがとうございました」
 カイカンさんが言う。あたしは「こちらこそありがとうございました」と返し、少し気になってたことを尋ねてみた。殺された社長さんのダイイング・メッセージ、カイカンさんの推理はすごかったし十分納得できたけど一つだけ腑に落ちないことがあったから。それは、あんな複雑なメッセージをとっさに考え付けるのかってこと。質問するとカイカンさんに代わってムーンさんが教えてくれた。
「その後の調査でわかったのですが、あの地デジの暗号は名越社長が中学生の時の文化祭で考えたものだったそうです。パソコン部の仲間と一緒に作ったミステリーゲームのネタでした」
「じゃあ亡くなる寸前に中学時代の思い出が浮かんだってことですか?」
 今度はカイカンさんが答える。
「そうですね、名越社長にとっては一生の思い出だったのかもしれません。つまり赤井さん、今君はとても大切な時代を生きているということですよ」
 そう言われてもなかなかピンとこない。多くの大人が青春時代の素晴らしさやかけがえのなさをこれみよがしに語るけど…その渦中にいるはずのあたしにはまだよくわかんない。
 あたしが黙っているのを見て、ムーンさんが赤いボディのボールペンを手渡してくれた。あの文房具店でもらったやつだ。
「犯人に襲われた路地に落ちていました。一応綺麗に消毒しておきました。これが落ちていたから私は赤井さんが近くにいるとわかったんです」
 そっか、あたしこれで犯人の手を刺したんだっけ。受け取りながらあたしはまた「ありがとうございます」と返す。続いてカイカンさんが言った。
「その髪も似合ってると思いますよ」
「そ、そうですか」
 ちょっと照れながら答える。そう、あの後あたしは髪の色を黒く戻した。別にチャビンとかママのためってわけじゃないけど…まあ大人もそんなに嫌じゃないかなって思えたから。的外れも多いけど、自分たちの都合じゃなくてあたしのために叱ってくれてるって思えたから。
「やっぱり、髪を赤くするなんて間違ってましたか?」
 あえて尋ねてみる。カイカンさんは最初に会った時みたいにゆっくり首を振った。
「そんなことありません。髪を染めようと思い立ってすぐコンビニに駆け込んだから、君は犯人に会わずにすみました。その後もその髪のおかげでしばらく犯人に見つからずにすんだわけです。赤い髪は何度も君を助けてくれましたよ」
 そっか…そうだよね。髪を赤くしてから嫌なことばっかりって思ってたけど、赤い髪のおかげで命が守られてたんだもんね。
「はい。でもしばらくはまたみんなと同じ黒い髪で頑張ってみます。カイカンさんみたいに好きな格好をしても堂々といられるようになるには、あたしはまだまだ修行が足りませんから」
 そう答えると、ムーンさんが「言われてますよ、警部」と悪戯っぽく微笑む。そんな顔もやっぱり綺麗。
「それまではこれがあたしのパチンの証明です」
 そう言ってボールペンを胸ポケットにしまう。
「そう、重要なのは髪の色ではありません。ちゃんとパチンがきたということです。きっとこれからもっと大きなパチンもきますよ」
 言い終えるとカイカンさんは懐かしそうに空を仰いだ。12月の夕焼けは弱く、儚く、それでいて優しいとあたしは思った。

 二人が帰ってからもあたしはしばらく秘密基地でぼんやり過ごした。高校のこと、将来のこと、人生のこと…まだまだ考えなくちゃいけないことはいっぱいある。決めなくちゃいけないことはいっぱいある。
 そう、あたしはドーナツ。真ん中がぽっかり空いた存在。でも多くの大人たちがそのドーナツの時代を宝物のように言う。まだよくわかんないけど、ドーナツの穴にどんな物を詰めていくかは焦らず考えよう。うん、ゆっくり考えていこう。

 そろそろ肌寒くなってきたのであたしは帰路に着く。
 旧体育館の中からはスパーンスパーンとまたあの音が聞こえていた。ちょっと気になって開いた窓から中を覗くと弓を構えた人。たった一人で…弓道部の自主トレかな。顔を見ると隣のクラスの男子だった。もう3年生は引退してるはずなのに…。彼は真剣な眼差しで大きなドーナツみたいな的を見つめている。
 スパーン、とまた放たれる矢。彼は弓を下ろすとタオルで額の汗を拭った。そして的の中心を射止めた矢を見て嬉しそうに微笑む…とっても無邪気に。それを見た瞬間、胸の奥にこの前よりもっと大きなあれがきた。

 …パチン!!

THE END.

■あとがき
 普通の中学生の女の子を主人公にして書いたら、カイカンやムーンさんはどんなふうに見えるのかな?…というのが今回の執筆のきっかけでした。どんなお話にしようか考えながら過ごしていると、ふと小学生の国語の教科書で読んだ小説「赤い実はじけた」と昔テレビで偶然見たドラマ「アンジェラ15歳の日々」が頭に浮かび、それが不思議な化学反応を起こして今回の物語が誕生しました。どちらの作品も記憶はおぼろげですが、独創性の少ない僕の脳みそに着想と言う喜びを与えてくれました。何気なく通り過ぎたものたちの中にも人生の宝物は散りばめられているんですね。そんなささやかなミステリーですが、お楽しみ頂けたら嬉しいです。

 というわけで2017年も間もなく終了。今年、美唄すずらんクリニックは法人から理事長賞を頂きました。一年間の頑張りを評価して頂けたのは素直に嬉しいです。でもここで油断せず二連覇・三連覇を狙う勢いで来年以降も心の医療を追及していきたいと思います。
 みんな、いつも本当にありがとう。来年もよろしく!

平成29年12月11日 福場将太

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