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コラム2018年5月コラム「丈比べ」

丈比べ

 こんなにおこがましい仕事はない、といつも思う。患者さんを評価し理解することを『アセスメント』と呼ぶが、それは粗暴な言葉で言えば見定めるということであり、無粋で無礼な行為に他ならない。特に心の医療では相手の人格や気持ち、能力や家族の状況、時には経済状態までアセスメントするわけだからそのおこがましさは尋常ではない。とはいえアセスメントなしに治療や支援はできないから、私たちはやむを得ずこの傲慢な諸行を日々くり返している。今回はそんな話をしてみようか。

 多くの場合、私たちスタッフが患者さんに対して行なったアセスメントと、患者さん自身が自分に対して行なったアセスメントは一致しない。医療者として特に心苦しいのは、患者さんの自己アセスメントがこちらのアセスメントより高い場合だ。逆の場合であれば、「私には無理です」と言っている患者さんをこちらは「あなたならできますよ」と励ます形になるので、未来に向かっての回復支援としてスタッフもやりがいを感じやすい。しかし「私にはできます」と言っている患者さんに「あなたには無理です」と諭す支援は非常につらい。
 もちろん患者さんの人生は患者さんのものであり、選択の責任者も本人だから、患者さんが「できる、やりたい」と望んでいることを医療者が無理に止めるいわれはない。しかしどうしても医療者というやつは安全を考えるあまり、無理な挑戦をさせないように働きかけてしまいやすい。失敗するのも患者さんの権利であり自由なのだけれど、失敗による不利益の大きさも知っているだけについつい転ばぬ先の杖を渡したがってしまうのだ。患者さん本人は不安を感じていないのに医療者だけが不安で頭がいっぱいになり、患者さんの安全を確保して医療者だけが自己満足なんてこともよくある。無謀だと伝えているのにやりたいという患者さんに対して、どうしてわかってくれないんだと医療者が腹を立ててしまうこともある。なんだかお門違いな怒りである。

 でも最近は思う。医療者のアセスメントより患者さんの自己アセスメントの方が高かったとしてもそれは良いことであり、人間はそうでなくてはいけないと。私だってそうだ。自分の身の丈を実測よりきっと高く評価している。本気を出せばもっとやれる、まだ眠っている力があるなんて心のどこかで思っている。実物の自分を見つめるなんてできない。多少なりとも自惚れ屋自意識があるからこそ人は恋をしたり夢を追ったりできるのだ。

 身の丈に合わないこともしたくなる、似合わない服だって着たくなる、医学的所見や統計的根拠だけで自分をあきらめるなんてできない。それが人間という生き物だ。

(文:福場将太 写真:カヤコレ)

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