コラム

コラム2014年11月「★連載小説★Medical Wars 第8話」

Medical Wars (福場将太・著)
*この小説はフィクションです。

■第8話「それゆけコメディカル」 (療養病棟)

 秋である。街路樹はその足元に黄色い絨毯を広げ、遠くに見える山々も小麦色や橙色に染まっている。…っておいおい、新宿でそんな童謡みたいな秋の風情が味わえるわけないだろ、と聡明な読者のみなさんは思われたかもしれない。ところがどっこい今回の舞台は都会の喧騒を遠く離れたのどかな田舎町。人口2万人ほどのその町には田畑と牧場が広がり、人間と動物、文明と自然がいがみ合うことなく寄り添っている。そして1時間ほど車を走らせれば太平洋に臨む砂浜。そう、ここは千葉県。その町の高原に立つ『すずらん医科大学病院 九十九里浜療養センター』から今月の物語は始まる。

 さてさて所変われば品変わる、というわけで14班メンバーではなく今回まず注目すべきはこの男。名前は葱山、38歳独身。巨体に加え髭も体毛も豊かなその風貌は一見熊を思わせる。しかし彼の前で死んだふりをする必要はない。彼はむしろ蜘蛛にさえ驚いてしまう小心者、趣味は携帯電話のストラップ集めというおよそ外見に似つかわしくない個性の持ち主なのだ。
 そんな彼はこのセンターに勤務する薬剤師。高校卒業後ガソリンスタンドやゲームセンターで働きながら資金を貯めての薬学部進学、留年や国家試験浪人を経て晴れて薬剤師になったのは三十路過ぎであった。すずらん医大病院への就職が決まり喜んだのも束の間、新宿の本院勤務はわずか3か月。その後は経験を積むためという名目で全国の系列病院に派遣され、そして現在の勤務地がここ千葉県というわけだ。

 月曜日。窓からは優しい陽光がこぼれ、迷い込む風にはそっと落ち葉が薫る。そんな廊下を歩きながら彼は人知れず溜め息を吐いている。この穏やかな秋の午後さえ彼にとっては心を預けるものではないらしい。
「はあ…俺はここで何やってんだろうなあ」
 ふと足を止め、遠くに見える風見鶏に向かってそう呟く。風にキコキコ揺れているそれが答えを返してくれるはずもなく、彼はもうひとつ溜め息を吐いてまた歩き出した。哀愁…いやそれ以上の悲哀。もしこの場にBGMを流すなら、それはやはり『小さい秋見つけた』だろう。
 廊下の突き当たりには職員食堂。いつものBランチを手にしていつもの席に座る。午後1時半、遅めの昼食に臨む者は少なく食堂内は閑散としていた。この男、テンションとは裏腹に食欲は旺盛、カラアゲとともに大盛りごはんをほおばる。この食いっぷりだけは熊といい勝負かもしれない。
「ほらまたそんなにドレッシングかけて、体に悪いよお」
 少し舌足らずな声がかけられる。茶碗から視線を上げるとそこには白衣姿の女性。歳の頃は葱山と同じ、黒い髪を肩まで伸ばした幼い顔立ちが印象的だ。
「あ、お疲れ。福ちゃんも今食事?」
 そう返した葱山に彼女は「違うよお」と答え隣に座った。
「ごはんはとっくに食べたよ。今オペが終わったからちょっと休憩に来たの」
 そう言って彼女は右手のペットボトルを示す。
 名は福岡、同じくここで働く麻酔科女医。このセンターの主な役割はその名の通り療養だ。患者の多くは高齢者であり、認知症や何らかの身体障害を抱えてここに長期入院している。ただの療養施設ではなくここが病院である強みとしては、ある程度の治療に対応できること。新宿の本院には及ばずともそれなりに内科・外科治療も行なえる。例えば転倒して骨折した高齢者の手術などがそれであり、そのため彼女のような麻酔科医も配置されているというわけだ。
「忙しそうだね、福ちゃん」
 またカラアゲをほおばりながら葱山が言う。
「全然そんなことないよお。オペだって毎日じゃないし、新宿の病院に比べたらヒマヒマ。まあ、たまにはこんなのもいいけどね」
 そう言って彼女は伸びをする。こういったのどかな地方病院は患者にとってはよい環境かもしれないがスタッフにとっては必ずしもそうではない。特に若者は都会志向が強いため自分化ら望んでここに就職する者は少ない。彼女にしても上からの命令で半年限定の約束で派遣されている。
「でもいいなあ福ちゃんは、来年には新宿に戻れるんだから」
「葱山くんだって所属は一応すずらん医大病院でしょ?」
「でももう8年くらい帰ってない。ここの前は北海道、その前は九州…ハア」
 溜め息の彼とは対照的に彼女は声を出して笑う。
「ハハハ、全国渡り歩いてるねえ。スーパー薬剤師じゃん!」
「何言ってんだよ、都合よく使われてるだけさ。九州の時なんかここよりもっと田舎の病院でさあ、やることないからって院長に山で一日タケノコ掘らされたんだよ」
 女医はさらに声を大きくして笑い、「葱山くんにタケノコ似合いすぎ!」と手を叩いた。薬剤師はさらに脱力してごはんをかき込む。
「それにしても福ちゃんさあ、もう医局じゃベテランだろ?地方病院への派遣なんてもっと若いドクターにやらせればいいんじゃない?」
 そこで彼女は口を尖らせて答える。
「そうなんだけどさあ、麻酔科って女が多いじゃん。それで何でか知らないけど結婚してる方が優遇されんだよね。普段の休日当番もそう、先生は独身だからやれるでしょって頼まれるんだよお」
 どうやら地雷を踏んだらしい。彼女の主張はどんどんヒートアップする。
「どうして独身だったらやらされんの、独身だからこそ休みは男探さなきゃいけないのに!それに結婚するのも子供作るのもその人の責任でしょ。なのに家族と過ごす休日は優遇されて私が1人で過ごす休日は我慢させられんのよ、ねえおかしくない?」
「まあまあ福ちゃん、落ち着いて」
 そうなだめられ女医は尖らせた口にペットボトルを持っていく。
「こっちもそうだよ、独身だからって全国に飛ばされて…毎日下宿と病院の往復の日々だもん。素敵な出会いもありゃしない」
 そこで葱山は大あくび。昼食をたいらげ眠気も襲ってきたらしい。ややクールダウンした福岡は笑顔に戻る。
「まあ独身のおかげで好きに生きてるけどね、私。ここに来たのも半分は自分の希望だし。毎日あんなビルみたいな新宿の病院にいたら葱山くんもうんざりするよ。それに葱山くんと再会できたのもここに来たおかげだし」
 そう言われて彼は「まあね」と曖昧に返す。そろそろ種明かしをしようか。薬剤師の葱山と女医である福岡がお互い敬語も使わず話をしている理由はただひとつ、2人は高校の同級生なのだ。特段その頃親しかったわけではない。ご想像通り葱山はクラスでも地味なマイナー派、それでもこうやって親しくできるのは福岡の分け隔てない人なつっこさのおかげ。先月食堂で「葱山くん?」と声をかけられ彼は驚いた。彼女が医大に進んだのは知っていたが、まさか20年ぶりにこんな所で再開するなんて。
「まあ俺も福ちゃんが来てくれたおかげで毎日がちょっと楽しくなったよ」
「そう?同級生って不思議だよねえ。まあ女子の友達は今ほとんど結婚してるし、ゆっくり話したりもできないから私もよかったよ。ほら、あの数学の先生憶えてる?」
 と、そこから思い出話に花が咲きかけたが…後ろから飛んできた声が水を差した。
「葱山くん!」
 2人が振り返ると、端正な顔立ちに知的なメガネの青年が立っている。
「もう2時過ぎてるよ、病棟回る時間でしょ!」
 そう言われて葱山は慌てて立ち上がり腕時計を見る。そして「すいません今行きます!」と頭を下げた。それを見て相手は「ちゃんと頼むよ、じゃあ3階の病棟で待ってるから」とその場を去っていく。
「ハア…またやっちゃった。この前も遅刻して怒られたのに」
 そんな独り言を漏らす同級生を女医は小突いて言う。
「ねえ今の人かっこいいじゃん。誰?紹介してよ」
「俺の上司…薬局長の藤原さんだよ。福ちゃんはまだ会ってなかったんだね」
 そう答えながら彼は急いで下膳する。そしてたいして期待もしてなかったがやはりここにも恋の脈はなかったことを感じながら彼女に「じゃあまた」と告げる。そんな悲哀も知ったこっちゃなく、食堂を出ていく同級生に福岡は「また飲みに行こう」と笑うのだった。

 廊下を走り抜け階段を駆け上がる白衣の熊男。すれ違うスタッフの何人かはその勢いに何事かと少し驚きの表情を見せている。息を荒げて辿り着いた3階病棟の入り口には藤原が彼とは対照的なスマートな姿勢で立っていた。
「ハア、ハア、遅れてすいません、藤原さん」
 息を切らしてそう言った葱山の目に、見なれない若者たちが映る。
 …あ、可愛い女の子。
 独身男の悲しい性か、そんな邪な感想がまず浮かぶ。薬局長の周りに3人、羽咋姿で立っているうちの1人が彼の目を引いたのだ。彼女は葱山に気付くと、「よろしくお願いしまーす!」と大きな声で挨拶した。葱山は思う。
 …え?いや、声でかすぎだろ。

「こちら、すずらん医大の学生さんね。じゃ、簡単に自己紹介を」
 藤原にそう言われてまず最初に名乗ったのは先ほど元気な挨拶をくれた彼女だ。
「遠藤美唄です。やる気満々なんでよろしくお願いします!」
 そのガッツポーズに戸惑いながら、「あ、どうも」と返す葱山に他の2人はそれぞれ井沢・長と名乗った。
「こっちは薬剤師の葱山くんね。熊みたいだけど襲ったりしないから安心して」
 薬局長の小粋なジョークに3人は笑う。そんな中葱山は息を整えながら「なんだ学生か」と呟いて納得する。系列病院であるここにポリクリ生が来るのは別に珍しいことではない…と言うより毎週のように来ているのだ。すぐにピンとこなかったのはやはり鈍い。まあ学生の雰囲気がどこかこれまでの医学生と違っていたのも事実だが。
 若い女の子はアイドルのような明るさと可愛さをまとっている。男のうち若い方はまあ爽やかな学生といった感じだが問題なのはもう1人、学生にしては老けていてどう見ても三十路を超えている。町でこの3人を見かけて医学生だとわかる者がどれだけいるだろう…それが葱山の感想だった。
「何を驚いてるの葱山くん。今まではなかったけど、院長の指示で今後は学生さんに薬剤師の病棟業務も見学してもらうって…先週言った炉?」
「あ、はい、そうでしたね」
 そう答えたが正直記憶はない。それを見透かしているように藤原は口元で笑うと、「それでは行きましょう」と学生たちを導いた。葱山は慌てて彼の横に並ぶ。

「今から行なうのは薬剤指導というもので、患者さんに自分の飲んでいる薬について知ってもらうためのものです。飲み心地を訊いたり、副作用がないか確認したり、薬の効果を説明したり…まあそんな感じですね」
 病棟を歩きながら手際よくレクチャーする藤原。そこで美唄は「患者さんからの質問も受けるんですか?」と尋ねた。
「もちろんです。自分の飲んでいる薬について知ることはアドヒアランスを向上しますからね」
 頷く学生たち。そこから藤原はひとつずつ病室を訪問していく。高齢者の多いこの病院、部屋を訪ねてくれるハンサム青年はどこでも高い人気を誇っていた。特に女性患者、中にはまるで韓流スターの追っかけのごとく彼に握手や抱擁を求める者までいる。それらをうまくあしらいながら、薬局長は笑顔でその業務をこなすのだった。
「先生、大人気じゃないですか」
 廊下でそう言った美唄に彼は「ここは長期療養の患者さんが多いからね」と返す。そしてただ薬の指導をするだけではなく少しでも喜びを与えられるのなら嬉しいと付け加えた。
 …う〜ん、まさに好青年。葱山にもこういうセリフが言えたらいいのだが、彼は優秀な薬局長の隣でただハンカチで汗を拭っていた。
 そんな調子で薬剤指導は順調に進んでいく。しかし、最後の一室を前に藤原の足が少し遅くなった。
「ここの患者さんも…明るく迎えてくれたらいいんだけど」
 そう呟いた彼に長が「何か問題がある人なんですか?」と尋ねる。藤原に目で促され、葱山が代わりに答える。
「ちょっと難しいおじいちゃんでね。頑固っていうか、取っつきにくいっていうか…いつも怒った感じなんだ。まだ頭もしっかりしてるし、体だってそんなに悪いわけじゃないんだけど」
「どこがお悪いんですか?」
 今度は井沢が尋ねる。
「腰を痛めて歩けなくなっちゃったんだ。でも歩行機具や車椅子を使う練習もしようとしないんだよね。リハビリのためにここにいるはずなのに…」
 葱山がそこまで説明すると、藤原は「まあそんなわけだからあまり刺激しないでね」と学生たちに伝える。そしてその病室のドアをノックした。
「こんにちは山平さん、薬局です。失礼しますね」
 …返答はない。少し待ってから5人は入室する。そこは一人部屋であった。八畳ほどの室内、窓際に置かれたベッドには上半身を起こした状態でその患者がいた。大きな窓には高揚に染まる山々と天高い秋の空…彼はそちらに顔を向けており入室者を気遣う様子はない。
「こんにちは山平さん、お加減はいかがですか?」
 …またもや無視。顔をこちらに向けることさえない。
「実は今日はすずらん医大の学生さんたちも一緒なんです。もう僕の顔も見飽きたでしょうからぜひお話でもいかがですか?」
 藤原に促され3人は自己紹介するが、結果は同じ。薬局長は少し困った顔をした後でベッドに歩み寄る。
「山平さん、お薬を飲まれていて何かお困りのこととかございませんか?」
 葱山と学生は壁際に立ち2人のやりとりを見守る。何かわからないことはないか、それとももう一度薬について説明しようかなどを藤原はあの手この手で投げかけるが山平は答えない。
「小さなことでもいいですよ。例えば粉薬が飲みにくいとか、苦いとか何かありませんか?」
「ない!」
 突然老人は叫んだ。その声には明らかな怒りと拒絶が込められている。藤原も、そして壁際の4人も響いた声に一瞬たじろぐ。
「そうですか…お邪魔してすいません」
 薬局長は小さくそれだけ言うとそのまま退室する。他の者もそれに続いたが最後尾の美唄だけがもう一度室内を振り返る。怪訝そうな、寂しそうな瞳…その視線の先の患者はやはりそっぽを向いたまま。彼女は廊下に出てそっとドアを閉めた。
「…まあ、こんな感じかな」
 藤原はそう苦笑いし、ここで本日の薬剤指導は終了となる。解放を告げられた学生は病棟を出ていき、2人の薬剤師も1階にある院内薬局に戻った。

 同日夜7時、仕事を終えた葱山はいつもの定食屋に立ち寄った。単身生活者にとっては有難い格安のおふくろの味…ここでスポーツ新聞を読みながら一人夕食を摂るのが彼の日課であった。
「先生、お疲れ様です」
 しかし今夜はそうはならない。呼びかけられてそちらを見ると昼間の学生が座っていた…女の子の姿はなくいるのは野郎だけだったが。「あ、君たち」と葱山が返すと2人は改めて名前を名乗った。
「そうそう、井沢くんと長くんだったね」
「もしよろしかったら葱山先生も一緒にお食事いかがですか?俺たちもさっき来たところなんで」
 一人のオフを満喫したい気持ちもあったが、まあそれはいつでもできる。葱山はそれに応じ彼らと同じテーブルを囲んだ。そして自分の注文を済ませると水を片手に会話を始める。
「君たち、今日はこっちに泊まるの?」
「ええ、そうなんですよ。せっかく九十九里まで来ましたから。あと3ヶ月早かったら泳いだりもできたんでしょうけどね」
 井沢がそう答える。長も「それに今日東京に帰ってまた明日の朝来るのは大変ですから」と付け加えた。
「じゃあもう1人の女の子も?」
「いえ、彼女は帰りました。家の方がよく眠れるからって」
 長の答えに葱山は「ああそう…」と少し残念そうに答える。もう、わかりやすい人。
「あ、先生今がっかりしましたね?俺らもちょっと期待してたんですけどねえ」
 井沢がそうおどけると長が小声で「こら、同村にぶっ飛ばされるぞ」とツッコむ。
「冗談ですって。でも美唄ちゃんのノリなら絶対こっちに泊まるって言うかと思ってたんですけどねえ。なんか最近元気ない感じしませんか?同村ともどこかよそよそしいっていうか…」
「なんだ、井沢も気付いてたのか。俺もそう思う…あの2人、何かあったのかな」
 と、そこまで話して2人は葱山を蚊帳の外にしていることに気付く。そしてすぐに「あ、すいません」と取り繕った。さすが社会性コンビ。
「いやいや、気にしないで。なんか青春って感じでうらやましいよ」
 薬剤師はそこでタバコをくわえて笑う。そして火を点けてから言った。
「昼間に病棟で会った時から気になってたんだけど…失礼だったらごめんね、長くんって結構歳食ってない?」
「ええ、実はそうなんですよ。今年33です」
 長は特に不快な様子もなく返す。この質問はこれまでもポリクリの各所で受けてきた、彼にとってはもはやお決まりのトーク。高校卒業後しばらく好き勝手にしていたこと、それでもある時医大を目指して一念発起し中学の勉強からやり直したこと、そしてなんとか受かって今に至っていることなどを面白おかしく説明する。聞き終って葱山が「苦労してるんだね」とコメントしたところで3人分の定職が運ばれてきた。タバコを灰皿でもみ消し彼は茶碗を掴む。それに学生2人も続いた。
 その後は実習に来てみての感想などを葱山が尋ねたりとまあ無難な会話が続く。そして早食いの葱山が一番にたいらげてまたタバコをくわえた。彼は「実は俺もね…」と自らの半生を語り始める。年上の社会人が学生にこれまでの苦労を語る…しかも内容はかなり愚痴っぽい。本来ならかっこ悪いことこの上ないのだが彼の語りは止まらない。長というある意味での同胞を知ったからかもしれない。あるいはストレスのスタンプカードがちょうどいっぱいになっていたのかもしれない。三十路を過ぎて薬剤師となったこと、都会の病院に就職したはずなのに全国各地に飛ばされタケノコまで掘ったこと、そしてここでの毎日などが赤裸々に語られる。先ほどの長と異なりこちらのストーリーテラーは悲哀に満ちていた。
 一本吸い終わったところで物語りも終わる。葱山は次のタバコを取り出そうとしたがちょうど空になったらしい。そこですかさず長が自分のタバコを差し出した。
「よかったらどうぞ…親分」
 突然そう呼ばれて葱山は戸惑うが長の瞳は謎の感動に満ちていた。
「え?親分?どうしたの長くん」
「俺の苦労話なんてまだまだでした。親分と呼ばせてください葱山先生!さあ、タバコどうぞ」
 葱山がくわえると彼はすかさず自分のライターで火まで差し出す。何となく察した葱山はそれに応じながら「若人に混じって頑張るオッサン同士、頑張ろうな」と告げる。長は本当に嬉しそうに「はい!」と返した。まあ彼も普段10歳下の同級生たちの中で溜め込んできたストレスのスタンプカードがあったのだろう。そしてそれを共有できる相手をずっと探していたのかもしれない。そこから2人のオッサンあるあるのトークが始まった。その隣で井沢はしばらく微笑んでそれを聞いていたが、やがてそっと席を立つ。まあ仕方ない、浪人も留年もなくここまで順調に歩んできた若者にはそのトークに加わる資格はない。それに…きっといつも長は若い自分たちの話題にさり気なく合せてくれていたんだろうから、たまには心置きなく話してほしい。
 そんなことを考えて彼は優しい顔になる。そして店員にそっと3人分の生ビールを注文して席に戻った。
「どうぞ親分たち、飲んでください」
 突然の提案に「まだ月曜だよ」とか「明日も仕事なのに」と一応返ってきたが2人とも悪い気がしていないのは明らかだ。それじゃあ飲んじゃいますかということで3つのジョッキが合わさった。

「でもいいよなあ、君たちは。これから医者になるんだよお?」
 午後8時半、5杯目のジョッキを口につけて葱山が言う。呂律も怪しくなってきている。
「そんなことないっすよ。親分だって薬剤師やってるじゃないですか」
 自らもタバコを吸いながら長が返す。
「バーカ、全然違うよ。薬剤師が主役のテレビドラマを見たことあるか?こっちはあくまで脇役だ。そもそも医者の免許があれば他のコメディカルの仕事は全部できるんだから」
 葱山の目はどんどん据わってくる。本当に野生の熊に近付いているようだ。ちなみにコメディカルというのは看護師や薬剤師など医師以外の医療スタッフの総称。
「そうっすかねえ」
 アルコールを投与してしまったことを少し後悔しつつ井沢が苦笑い。
「確かに俺は薬剤師、しかもオッサンだ。昔の同級生はみんな家庭を持って活躍してる。でも世の中エリートだけじゃ回らないんだよお」
 長は「親分、その通りです」と答えそこで井沢に方を組んだ。
「でもこいつは違います。確かに現役ストレートのエリートですけど、ボンボンのボンクラじゃありません。ちゃんと思いやりのあるたいした奴ですから」
「おおそうか、それはすまなかった」
「い、いえそんな…」
 人生の先輩2人に謎の賛辞を受けて戸惑う井沢。そこであくまで定食屋であるその店はそろそろ閉店だと告げられる。そしてここから恐怖の時間…学生2人が熊野縄張りから抜け出す頃には午前3時を回っていた。
 2軒の居酒屋をハシゴした後、葱山は何故かコンビニに突入しバナナを3房も購入。そして学生2人に健康のためそれを食えと押し付ける。もはやここまでと判断した2人は葱山をタクシーに押し込めてどうにかその場を収束させた。まあお互いサッカー部と柔道部でこんな場面には慣れているとはいえ、まさか九十九里の地でまでとは予想していなかっただろう。睡眠時間確保のため2人は慌ててホテルへの帰路を急ぐのであった。

「はい美唄ちゃん、お土産」
 火曜日朝8時、井沢から1房のバナナを渡されて彼女は当然驚く。
「え?何これ、南の島でも行ったの?」
「色々と深い事情があってね。まあ気にせず食べてよ」
 二日酔いで明らかにむくんだ顔で長が答える。「長さん、本当にすいませんでした。俺が余計なことしたせいで」と謝る井沢。
「何言ってんだよ、最後はあれだけどすっごく楽しかったって。ありがとな」
 そんなやりとりを見て笑う美唄。
「なんかよくわかんないけど、今日も一日頑張ろうね。明日からまりかちゃんたちと後退なんだからしっかり引継ぎしないと」
 そう、このセンターでの実習は最初のチームが月・火曜日、次のチームが水・木曜日、そして最後の金曜日だけ6人全員で行なわれる。ここに来ていない方のチームはいつもの新宿で老年医学の実習中。つまり本院では治療と診断を学び、ここでは療養とリハビリを学ぶわけだ。
「2人とも、テンション低いよ。ほらエイエイオー!」
 朝の医局前廊下に美唄の声が響く。お疲れの2人はひとまずそれに合せた。
「声が小さい、はい、エイエイオー!」
「エイエイオー…」
 そんなこんなで学生たちは今日の実習に勤しむ。ちなみにこの数時間後、昼前になってようやく出勤した熊…もとい葱山に藤原から雷が落とされたのは言うまでもない。

 そして水曜日、九十九里浜に次のチームがやってきた。まりかに向島、そしてようやく登場した主人公・同村である。逆に美唄たち3人は今日から本院での実習となっている。昨夜井沢から同村に届いたメールの内容はただ一言、『熊出没注意』。もちろん同村には全く意味がわからない。
 …九十九里浜に野生の熊が出るのか?まさか、北海道じゃあるまいし。
 そう考えたところで彼の思考は北海道という言葉で立ち止まってしまった。北海道…そこにあるという美唄という街。遠藤美唄の名前の由来であり、それと同時に告げられた彼女が抱える障害。あの夜からもう3週間…美唄はこれまでと同じように明るく接してくれる。ただ帰り道はお互い何かと用事を作ってできるだけ同じ地下鉄にならないようにする日々が続いている。班の雰囲気を壊さないように…と同村もなるべく何事もなかったように振舞ってはいるが、ほのかな好意さえ周囲にバレバレだったこの男にそんな器用な真似ができるはずもない。2人の間に何かが起こったことは主として同村の様子からあっけなく班員に感じ取られていた。

「よろしくお願いします」
 朝9時、3人は医局でスタッフたちに頭を下げた。山間と言う立地、そして療養という目的、何もかもが都会の大学病院と異なるこのセンターでは医師たちの雰囲気さえも穏やかでどこかゆとりが感じられた。センター長である粕谷も例外ではない。
「秋月先生、同村先生、向島先生…ですね、よろしくお願いします」
 小柄で初老の医師はそう言って易しい笑顔を見せた。
「ここにおられる患者さんたちはほとんどが高齢者です。療養とリハビリが主な目的ですから入院も年単位で、医療でありながらも半分は介護のような意味合いが強いですね。身体が不自由だったり、認知症で物忘れが多かったり…」
 学生は頷く。
「最新鋭の技術で診断と治療を行なう大学病院、その一方で高齢化に向かうこれからの日本にはここのような病院がもっと必要になります。みなさんが将来どちらに立って働きたいか、ぜひ考えながら実習をしてください」
「…はい」
 3人同時に答える。そして午前中は骨折した患者の手術見学、午後からは薬剤師が行なう病棟での薬剤指導に同行するよう指示された。

 正午過ぎ、手術見学を無事終えた3人は院内の食堂で昼食にありつく。
「でもさっきのおばあちゃん、手術うまくいってよかったですね」
 と、まりかが切り出す。男2人も食事を口に運びながら「そうだね」と頷いた。そして向島が思い出したように言う。
「ところで手術の時の麻酔の先生、前にも会ったような気がするんだけど…」
「あ、あの女医さんですよね。実は私もそう思ってたんです」
 まりかはそう返すが同村は特に何も言わない。ただ黙って箸でおかずを突っついている。そんな様子に向島は心配そうな視線を向けた。
「なんか最近元気ないよね、同村くん」
「え?いや、そんなことないですよ」
 返したその言葉に説得力はゼロだ。そこでまりかは箸を置いて静かに尋ねた。
「違ってたらごめんね。もしかして…美唄ちゃんと何かあった?」
「いや、別に…」
「そう?いや同村くんもだけど、美唄ちゃんの方がもっと元気ないような気がするのよね、最近。いつも通り明るいことは明るいんだけど、どこか暗いっていうか…向島さんはそう思いませんか?」
 音楽部先輩はそこで視線を落とし、「さあね」とだけ返す。それを最後にしばらく無言での昼食が続いた。
「あー君たち、おっ疲れー!」
 脳天気な声が沈黙を払った。ふと見ると先ほど話題に上がった女医がトレイに昼食を乗せて立っている。察しのよい読者のみなさんにはもうおわかりでしょう、福岡である。
「あ、お疲れ様です」
 3人同時に返す。すると彼女は特に断りもなくまりかの横に座った。
「そっかあ、水曜日だから今日からまた新しい学生が来てるんだもんね。新宿からここまで遠かったでしょ」
 そう言いながら彼女はおいしそうにスパゲッティを口に運ぶ。
「さっきのオペでも見学してたもんねえ。学生も大変だ、何もしないで見てるのって疲れるでしょ」
 まりかが「いえそんな」と返す。そこで向島が尋ねた。
「あの…先生、失礼ですが前にもお会いした気がするんです。もしかしてすずらん医大にいらっしゃいませんでしたか?」
「うんいたよお。9月までね。10月からこっちに来てるの。じゃあ向こうのオペ室でも会ったのかもね。私は福岡、よろしく」
 そこで学生も改めて挨拶し自己紹介した。彼女の親しみやすい性格に3人はすぐに打ち解けることができた。同村も元気がないぞとからかわれながらも一応笑顔で会話に参加する。福岡自身もすずらん医大出身らしく、学生時代の部活や講義の話題に花が咲いた。
 …と、そこで女医は食堂の中にあの男の姿を発見する。
「あ、葱山くん!こっちこっち」
 トレイを持って座る席を探していた彼は彼女の明るい導きによりテーブルに近付いてくる。そしてそこにまた見慣れない顔がいることにも気が付いた。
「ほら座んなよ、葱山くん。こっちはすずらん医大の学生。え〜と、秋月さんに向島くん、同村くん。みんな、この人は薬剤師の葱山先生ね」
 彼女の手際よい紹介により両者は簡単に挨拶する。そして葱山は改めて3人を観察した。
 …女の子は黒髪にメガネでいかにも真面目そうな感じ、ちょっとポッチャリかな。男の1人は少し暗くて無口そうな地味系。そしてもう1人の男は…他の2人より少し年上かな?なにやら怪しい目つきで虚空を仰いでいる、なんじゃこいつは。まあ女の子はこの前の子の方が可愛かったな。そういえば同村って名前…あの子と噂があるみたいなことを一緒に飲んだ2人が言ってなかったっけ?
 そんな勝手なことを考えながら腰を下ろす。席に着いた葱山にまりかが言った。
「薬剤師さんなんですね。私たち午後から薬剤指導に同伴させて頂くので、よろしくお願いします」
 班長の段取り能力は遠征先でも健在だ。薬剤師はエビフライをほおばりながら「あ、よろしく」と返した。食いっぷりは相変わらずだがどこか活気がない。
「どうしたの葱山くん、なんか元気ないけど」
「別にそんなことないけどさあ…」
「もしかしてまたなんかミスっちゃったあ?この前も遅れて薬局長にここで怒られたよね」
 そこで葱山は一昨日の夜に学生2人と飲みに行って翌朝遅刻した話を溜め息混じりに漏らす。女医は笑い、学生3人も話に登場しているのは井沢と長であることを察して苦笑いした。特に同村においては、『熊出没注意』の意味もなんとなくわかった。
「なんかいいじゃん葱山くん、若いノリでさあ。なんなら今夜も飲みに行っちゃう?」
「いやいや勘弁してよ、薬局長にマジでキレられたんだから。今度やったらクビになっちゃう」
 そんな社会人2人の微笑ましいやりとりを見ながら同村が「仲がよろしいんですね」とコメントした。福岡はそこで葱山と自分が高校の同級生であることを明かす。
「だから君たちも仲良くしなよ、同級生は一生の仲間なんだから。私も未だにポリクリ班のメンバーとは連絡取り合ってるし」
 向島が自分は一度留年していることをおどけて明かす。女医が「じゃあ同級生が普通の二倍いるんだからいいじゃん」とツッコみその場に笑いが起こる。留年経験なら葱山も負けてはいないが、さすがにアルコールなしでそれをここで披露することはなかった。ただ「やっぱりお医者さんっていいなあ」と少しうらやましそうにコメントした。
「でも薬剤師さんだって薬の専門家じゃないですか。かっこいいですよ」
 そう同村が答える。まりかも頷いた。
「でもねえ、こっちは医者の書いた処方箋通りに薬を作るのが仕事だよ。特にすずらん医大にいた頃なんか朝から晩まで薬局にこもって、送られてくる処方箋をひたすら処理するだけ。まさに調剤マシーン」
 愚痴っぽくなる彼に福岡が背中を叩いて言った。
「でもここでは違うでしょ。患者さんと触れ合って、ドクターとも相談しながら処方考えてるじゃない。ほらほら、シャキッとしなさい」
 そんなこんなしているうちに全員の食事が終わる。腕時計を見てまりかが「まだ10分前ですけどそろそろ行きますか」と促した。同村に向島、そして葱山がそれに応じる。おいおいオッサン、本当はあなたが率先しなくちゃ。

 福岡に別れを告げ4人は3階に上がる。病棟に入る前の廊下で葱山が言った。
「まだ薬局長は来てないな…ちょっとここで待っていよう」
 まりかが「あの、ひとつ質問よろしいですか?」と問う。
「え、俺に?別にいいけど…」
「実は先に実習に来た班員から聞いたんですけど、ちょっと難しいおじいさんの患者がいるって」
 美唄からのその情報はまりかを通じて同村と向島にも伝わっていた。薬剤師は「ああ、山平さんのことだね」と返した。
「そのおじいさんはどうしてそんなにいつも怒ってるんですか?何か治療に不満があるんでしょうか?」
 彼女の真剣な眼差しに、葱山は少し考えてから答えた。
「そうだねえ…でも治療もうまくいってるし、確かに足は不自由だけどお風呂も食事もヘルパーさんがしっかり援助してくれてる。お金もある人だからいい個室もあてがわれてるし…」
「じゃあそんなに満たされていない感じじゃないんですね」
 と、同村。葱山は頷く。今度は向島が「寂しいとかじゃないですか?」と言った。様々な角度から原因を考える…精神科で学んだアセスメントの技法だ。
「でもねえ、家族は週一回はお見舞いに来てるし…スタッフがお話をしようとさそってもそれも拒否だし。俺たちもわからなくて対応に困ってるんだ。あんなにいつも怒ってる方が大変だと思うんだけど」
 結局答えは出ない。そのうちに藤原もいつものスマートな好青年で現れた。
「よし葱山くん、今日は遅刻しなかったね。学生さんとももう自己紹介したのかな?」
「はい、藤原さん」
 途端に小さくなる大男がおかしくて学生たちは笑いを噛み殺す。
「よし、じゃあ行きましょうか。僕は薬局長の藤原ね、よろしく」
 そう言って踏み出した彼に続き、病棟珍道中が始まった。

 本日もまた結果は同じであった。多くの患者に絶大な人気を誇る薬局長、しかし最後の個室の山平だけは無視と拒絶を崩さない。学生3人もなんとか話題を提供しようと頑張ったが…徒労に終わった。その後も看護師やリハビリの理学療法士が彼を誘いに来たのだが、それも全て怒りの一括で追い返されてしまった。

 そして午後5時、実習から解放された3人。まりかは美唄と同じく東京に帰り、同村と向島は現地のホテルに泊まることにした。近くのラーメン屋で夕食を囲みながら同村が言う。
「あの患者さん…やっぱり怒ったままでしたね」
「そうだね…」
 そう返しながら向島は音を立てて麺を吸い込む。
「もともと人間嫌い…とかなんでしょうか?」
「どうかなあ。でも僕はあのおじいさんを笑わせそうな気がするけど」
 そう答えた憧れのアウトローに、同村は驚いて詳細を尋ねる。
「あのおじいさん、医療も介護も満たされて、環境も悪くない。けっして不自由が多いわけじゃない。家族も来てくれていて孤独なわけでもない。となると原因は…」
 天才はそこで餃子をかじってから言った。
「…退屈なんだよ。長年入院してるんだから当然さ。きっとそれでイライラしてるんだ」
「でもそれならスタッフとの世間話に応じそうじゃないですか?それにリハビリに参加したり、大広間でテレビ見たりすればいい」
「きっと、そんなんじゃ刺激が足りないのさ。もっと高いエンターテイメントじゃなくっちゃね。大丈夫、僕に任せて」
 そこで向島はウインクする。一体何を考えているのか…同村は期待と不安を入り交えながら「そうですか」と呟いた。
「それより…遠藤と何かあったのかい?」
 ふいに向島が真面目な顔になって尋ねた。箸を置いて口ごもる同村に「まあおおよそ想像はつくけどね」と付け加える。
「あの、向島さん…」
 何をどう話すべきか迷う。しかしそこで、音楽部の仲間には病気を打ち明けているという美唄の言葉を思い出した。
「遠藤さんの目のことなんですけど…」
「ああやっぱり、君も聞いたんだね」
 そう言って向島も箸を置く。同村は頷いて続けた。
「俺…どうしていいかわからなくて」
「それは君がどうしたいかによると思うよ」
 向島は優しく言う。
「僕も彼女に打ち明けられて最初は戸惑った。でも遠藤はあんなキャラだしね、変に意識するのもよくないかなって。それでまあ暗い場所とか人が多い場所とかではちょっと気にかけてあげてた感じかな。でも最近…ちょっと病状が進行してるみたいだけど」
「きっと遠藤さん、今、将来のことが一番不安なんだと思うんです。このまま自分はここにいていいのか、医者になっていいのか…なれるのか」
「そうだね…」
 向島は目を伏せた。そこで沈黙が訪れる。この2人、理由は全く違うが医学部にいることに疑問を感じている者同士。でもそれはあくまで精神的な問題。彼女のように身体的な問題で、できるできないということではない。自分たちの悩みがおこがましいものであったことを今更ながら思い知る。
 医者の診断ひとつが患者の人生を大きく変えてしまうこの仕事。患者を診る際の重要な手がかりのひとつである視覚が当てにならない、その恐怖を押してそれでも白衣を着る…想像もつかない。それが勇気なのか傲慢なのかもわからない。ただいずれにせよ並大抵の覚悟ではないだろう。
「結局…」
 やがて音楽部先輩は口を開いた。
「遠藤が自分で決めるしかないんだ。大変だと思う、5年後の自分がどうなってるかわからないのに人生を選ぶなんて。それでも…あいつが決めるしかないんだ」
 同村は「…はい」と力なく頷く。
「僕たちはあいつが決めた道を応援してあげるしかないんじゃない?たとえそれが医者の道じゃなくてもね」
 そこで向島は水を飲み、少し笑顔を見せた。
「実は同村くんにはちょっと期待してた…っていうか今もしてるんだけどね。遠藤が君に病気を打ち明けたのは、やっぱり君だからだと思うよ」
「向島さん…」
「なんてね。ほら、ラーメン延びちゃうから早く食べよう」
 ありがとうございます、そう胸の中で呟いて同村もまた箸を手にする。きっと向島はなんとなくわかっているのだ…彼が彼女に想いを伝えて断られてしまったということも。
 そしてその後は同村から率先して向島に最近の音楽活動を尋ねる。得意げに鳴った先輩は小龍包とその話題にかぶりつくのであった。

 そして翌日木曜日、天才ミュージシャンは一計を案じた。なんと遠征先まで持参していたアコーディオンを院内に持ち込み、山平の病室で演奏を披露。そのテクニックを笑顔で見せ付けた。
 さあ今回もMJKが音楽の魔法で解決か…と思われたが世の中そんなに甘くない。老人はいつも以上にブチ切れ「うるさい、いい加減にしろ!」と一括。これ以上居座れば物まで投げつけられそうな勢い。陰で見ていた同村に引っ張られ、天才もとい変人はあっさり退場となったのである。

 金曜日、まずはまたあの男から見てみよう。午前8時、葱山は大あくびで眠い目を擦りながら出勤した。薬局長から頼まれた書類の締め切りが今日だと思い出したのは昨夜布団に入った直後。まあそのまま眠ってしまうよりは幸運だったが、おかげで安息の夜は悪夢に変貌した。何度も睡魔の誘惑に負けそうになり、いっそのこと投げ出して藤原に雷を落とされようかとも思ったが…今週はすでに一度被雷しているためさすがにまずかった。明け方なんとか書類を仕上げたが今布団に入れば必ず遅刻する…タバコとコーヒーで無理やり時間を潰しての出勤となったのだ。
 ひとまず書類については怒られずにすんだ彼であったが、その後の業務では結局雷が落とされる。調剤をしながらうつらうつら…ただでさえ睡眠薬などを調合しているとその粉塵を吸入して眠気に襲われやすいこの作業、ついには薬包紙を片手にいびきをかいてしまった。
 怒鳴られて飛び起きる熊男。頭を下げた後に見た藤原の瞳にはもはや憎悪と軽蔑の色が浮かんでいる。
「葱山くん…やる気がないなら辞めてもいいんだよ?」
 もう声を荒げることはせず、好青年は冷ややかに言った。その意味を感じとり、愚かな部下はまた必死に頭を下げる。
「葱山くん…もう調剤はいいから顔でも洗ってきたら?そんなんじゃミスを起こすよ。眠いんならどこかで寝てきな。午後に頼んだ仕事だけでもちゃんとやって」
「…午後?」
 葱山は思わずそう言った瞬間口を押さえる。だが後悔してももう遅い…怒りの火にガソリンを注いでしまった。
「今日は僕がカンファレンスで遅れるから、代わりに薬剤指導を頼むって言っただろ!」
 最大級の雷鳴が薬局に轟く。
「わ、わかってます!すいません!」
 男は山火事から非難する熊のごとく、一目散に部屋を飛び出した。まさにスタコラサッサのサ。

 午後3時、ドクターとコメディカル合同でのカンファレンスを終えた藤原は医局を出た。議題はいくつか挙がったが、やはり一番スタッフを悩ませていたのは山平老人であった。いつも不機嫌で何も寄せ付けない患者は、医師・看護師・理学療法士などあらゆる職種の業務を難航させていた。藤原も意見を求められたが、薬剤師も困っているとしか答えようがなかった。
「やれやれ」
 そう小声で呟いて薬局に戻る…そこにまだ部下の姿はない。もうそろそろ薬剤指導も終わっていていい時刻なのだが…まさか、と嫌な予感が彼の脳裏を過る。
「さすがにすっぽかしてはないよな、あいつ」
 そう吐き捨てながら階段を走って3階病棟に着いた藤原、そこで彼らと出くわした。
「あ、藤原先生、お疲れ様です」
 そう明るく言ったのは美唄であった。その横には5人の学生。実習最終日である今日は14班メンバー全員が九十九里の地に集結していた。先ほどのカンファレンスも見学した6人はそのまま病棟に上がってきたらしい。
「やあ君たち、病棟見学ですか?」
「はい。粕谷先生から最後にゆっくり病棟で過ごすように言われました」
 まりかが答える。好青年はそこで笑顔を作った。
「そうですか。うん、長期入院が許される療養病棟は大学病院にはないからね。しっかり見学するといいですよ」
「先生はまた患者さんを回って薬剤指導ですか?」
 再び美唄が言った。
「うん、まあね。一応もう葱山くんがやってくれたはずなんだけど…」
 そう藤原が言いかけたところで、病棟にガシャーンと大きな音が響いた。全員が驚いてそちらを見ると、1人の老婦人患者が皿の乗ったトレイを落としてしまったようだ。近くの看護師が「大丈夫、平井さん!」と駆け寄った。
「ええ、ええ、大丈夫です。私、ごめんなさい。おやつのお皿を片付けようかと思って」
 老婦人は恐縮したように謝る。看護師は笑顔に眉を寄せて言った。
「あらそうなのね、ありがとう。でもそれはスタッフがやりますから気を遣わなくていいのよ。平井さんはお体が悪いんだから無理をしなくていいのよ」
 そんなやりとりを見ながら薬局長と学生はほっと胸を撫で下ろす。とかく高齢者の病棟では転倒による怪我・骨折が多い。そうではなかったことに安心したのだ。
「平井さんは何もしなくて大丈夫、安心して私たちに任せてね」
「そうですね、ごめんなさい」
 そう寂しそうに微笑む患者の姿を、ただ1人美唄だけはみんなと違う表情で見つめている。優しさでも憐れみでもない視線…そんな彼女の横顔に同村は少し怪訝な顔をした。

 その後は藤原と一緒に7人で病棟の患者に声をかけていく。薬局長が尋ねると患者たちは「あのクマさん先生ならさっき来ましたよ」と返す。もちろんそれは葱山のこと、ひとまず職務を果たしていたことに藤原は安堵する。しかしそれならあの男はどうして薬局に戻ってこないんだ?…と新たな疑問は浮かんだが。
 学生も患者たちとそれぞれに世間話を交わしながら病棟を回っていく。中には美唄や井沢のファンになってしまっている患者もいた。そして一同はやがてあの個室に辿り着く。
 …藤原は一瞬ためらった。しかし他の病室に葱山の姿はない。もしかしたらこの部屋に?、と否が応でも考えてしまう。ドアの前に立つ薬局長、その後ろには14班の6人が並ぶ。
 意を決してノックする。やはり返事はない。
「すいません山平さん、薬局の藤原です」
 そう言って静かにドアを開ける。そして彼らの目に飛び込んできたのは…あまりに衝撃的な光景だった。

 …グアー、グアー。
 室内には獣のように大きないびきが響いている。その主はもちろん熊男。葱山は山平のベッド脇の椅子に腰かけたまま、おそらくは薬剤指導の最中に眠ってしまったのだろう…こともあろうかベッド上の山平に寄りかかって眠っていた。
 藤原の頭に一気に血が上る。この男ついにここまで…怒鳴りつけてやろうと口を開く寸前、同村の言葉でそれが止まった。
「…笑ってる」
 その瞬間藤原も気が付いた。自分に寄りかかって豪快な寝息を立てる男を見ながら…山平が笑っていた、優しく微笑んでいたのだ。
 呆気にとられたのは彼だけではない。学生たちもこの奇妙な構図に視線と心を奪われる。今目の前で起こっていることが一体何なのか、誰にもわからなかった。…ただ一人、彼女を除いて。
「遠藤さん?」
 また同村が声を上げた。それに導かれ全員が彼女を見る。その二つの瞳からは大粒の涙がこぼれていた。
「どうしたの、美唄ちゃん!」
 みんなが口々に言う。いくつもの心配に囲まれながら、美唄は指で涙を拭って微笑んだ。それは彼女が見せたこれまでで一番嬉しそうな顔だった。
「だって…よかったなって思ったら、涙が止まらなくて…」
 彼女の視線はまっすぐに山平と眠る熊男を見つめている。みんなはわけがわからず美唄と2人を交互に見た。
「嬉しいんだよ山平さん、だから笑ってるんだよ。だって、だって、やっと…役に立てたんだから」
 正直その説明を聞いても誰もすぐにはピンとこなかった。美唄は続けて言う…山平がいつも不機嫌そうだったのは不満でも孤独でも退屈でもない、人の役に立てない苦しさだったのだと。身体が不自由になって彼は世話をされるだけの自分、何の役にも立っていない自分が苦しくてたまらなかったのだ。だからどれだけ手厚い治療や介護を受けても、娯楽を提案されても気持ちは晴れなかった。しかしそれが今日…『眠る葱山に肩を貸す』という役割を与えられた。だから彼は自分に寄りかかって気持ち良さそうに眠る男を見て微笑んでいるのだ。
 そんな彼女の言葉を聞いて藤原ははっとしてまた山平を見る。
「役に立ちたい…そうだったのか」
 そう呟いて彼は自分たちスタッフが見落としていたものを知る。最高の治療、安全な環境、何不自由ない介護…それでは埋められない大切な感情が人間にはあることを。自分たちはつい言ってしまう、「何もしなくて大丈夫ですよ」と。「病気なんだから無理をしなくてもいいんですよ」と。でも違う、そうじゃない。病気だからこそ、無理をしてでも何か役に立ちたいのだ。
「そっか、さっきのおばあちゃんも同じなんだ」
 向島が言う。そう、きっとあの老婦人もそんな気持ちでトレイを運ぼうとしたのだろう。
「…役に立ちたい、そうだよな」
 井沢も優しくそう漏らし、まりかも頷く。長も腰に手を当てて言った。
「わかるな。俺も早く…早く社会に出て誰かの役に立ちたいから」
 そして彼は小声で「ですよね、親分」と眠る男に囁いた。
 美唄はハンカチを取り出し涙を拭う。隣で同村が言った。
「やっぱりすごいよ遠藤さんは。君にだけ見えたんだから…山平さんの心」
 そこで彼女は顔をクシャクシャにして、声ともならない声で「ありがとう」と返す。そこだ同村、抱きしめろ!…と作者としては言いたくなりますがもちろんそんな主人公ではございません。しかもここは病棟、失礼致しました。

 戸口に立ったままだった7人はそのまま静かに部屋を出る。そっとドアを閉めて藤原が言った。
「…よかったね」
 学生はみんな夢でも見ていたかのような顔で頷く。そして彼らは藤原に礼を言って病棟を出て行った。薬局長はこのことを山平の担当医に伝えるべく再び医局に向かって歩き出す。
 あの老人が笑った。この病院に来て初めての笑顔を見せてくれた。彼の心を救ったのはエリートのドクターでも優しい看護師でも人気の好青年でもない。それは最低最悪の部下、遅刻とドジの常習犯で浪人と留年の王様であるへっぽこ熊男だったと。

 夕刻、無事実習を終えた6人は向島のワゴン車で東京に帰った。音楽機材を持ってくるためにわざわざ借りたレンタカーだという。もう機材は宅急便で送ったからとのことで、一応先輩である彼が全員を乗せてくれたのだ。
 帰りの車中はこの一週間の感想や来週回る次の科の話題で盛り上がった。美唄もいつものハイテンションを見せている。あの時どうして彼女が感泣したのか…彼女の病気を知らない班員にはまだよくわからなかったが、特にそれを尋ねる者はいなかった。そこにきっと言えない秘密があることをなんとなく感じとったのであろう。

 長・井沢・まりかを順に最寄駅まで送り、車内は3人になる。
「すいません向島さん、お疲れのところ送ってもらって」
 と、助手席の同村。向島はその細く長い指で機嫌よくハンドルを操作しながら言う。
「平気平気。それにしても今回の実習はよかったなあ、あんな遠くまで行った意味があったよ」
「え、どういうことですか?」
 アウトローには珍しい話題だった。
「なんかね、やっぱり医療はチームでやるもんなんだなあって実感したよ。ほら、カンファレンスでもさあ、ドクターといろんなコメディカルが集合してみんなで話し合ってたじゃない?新宿の病院だと大きすぎて全部のスタッフが集まるなんてできないもんね」
「確かに…そうですよね。本院じゃあドクターが処方箋書いてもその薬を作ってくれる薬剤師さんの顔なんて知らないですから」
 向島は頷く。そして自分はたくさんの楽器が弾けるけどだからといって一人で演奏して多重録音してもよい音楽にはならないと語った。時にぶつかり合ったとしても、別々の人間がそれぞれの楽器を持ち寄って演奏するからこそ大きな力が生まれるのだと。
「だから僕はバンドが好きなんだ。医療のチームも同じさ、ドクターだけいても何にもならない。あの病院でそれがよくわかった」
「…そうですね」
 同村は深く頷く。後部座席でしばらく黙っていた美唄が口を開いた。
「私…大丈夫みたい」
 窓の外には夜でもまばゆい東京の街が流れる。それを見ながら彼女は続けた。
「今日…はっきりわかったの。私もやっぱり、誰かの役に立ちたい。たとえどんなに迷惑かけても、失敗しても、それでも役に立ちたい」
 同村と向島は黙ってそれを聞く。
「ドクターがダメでもコメディカルでもいい。話し相手になったり、車椅子押したり…ひとつでも役に立ちたい。だから…もう大丈夫!」
 そう語尾を力強く言い、彼女はガッツポーズをした。「うん」「そうだね」と2人は優しく返す。
「色々心配かけてごめんなさいでした。でももう大丈夫!行けるところまで行くって決めたから。だから、これからもよろしくです!」
「了解」
「任せとけ!」
 そう同村と向島が同時に言う。そこで彼女はまたいつものノリに戻る。
「よ〜し、頑張るぞ!もしコメディカルもダメならコメディアンにでもなってやる!それで患者さんを笑わせるんだ、エイエイオー!」
「じゃあ僕もいつかプロのミュージシャンになるぞ、エイエイオー!」
 彼女に続いて向島も拳を振り上げる…いやいや、ハンドルから手を離さないで。助手席で戸惑う主人公に美唄が「ほら、同村くんも何か言って!」と後ろから急かした。
「え?え〜と、じゃあ俺もいつか自分の小説を出版するぞ。エ、エイエイオ〜」
 慣れない同村の掛け声に美唄と向島は大笑い。おいおい君たち1人くらい医者になるぞって言いたまえよ。まあいいか…そんなこんなで淡い希望を乗せた車は賑やかな夜の街並みに消えていくのであった。

 ちなみにその頃葱山はというと…福岡につき合わされまたもや三次会の居酒屋にいた。口から出るのはまた愚痴ばかり。
「今日なんか薬剤指導の最中に居眠りしちゃってさあ…ああもうダメだ俺」
「そうなの?バカだなあ、ハハハ」
「バレたらまた藤原さんに怒られる〜」
 こうして自分が他の誰も打てなかったホームランを打ったことなど知る由もない彼は、今夜もまた酔いつぶれていくのでありました。そして明け方、土曜日出勤のシフトだったことを思い出すのです。
 ではでは葱山薬剤師、大好きなキャラクターだけど君の出番は今月限りなんです。今後の活躍を祈ってます。いつか新宿の本院に戻れるその日までファイト!そして福岡先生も良い味付けをありがとう。

 そんなこんなで今月の物語もそろそろおしまいです。
 最後に、家に帰った遠藤美唄が徹夜で作り上げた人生初のオリジナルソングをご紹介しましょう。それではみなさんまた来月!

エイエイオー!
(作詞・作曲:遠藤美唄)

カレーを食べたら元気が出て 唄を歌ったら勇気湧いて
単純だね でも大丈夫 それが私のイイトコロだ

今日は間に合わないレポートは 明日の自分にお願いしよう
突然告げられる運命も 神様からの口頭試問

何ができるかはわからない 何にもできないのかもしれない
だけど今ここにいること ごはん一粒残さない

色んな物を見失いながら 涙信じて手を伸ばそう
夢を見ることも仕事することも 全部エイエイオー!


笑顔と元気は100% たまにはめげちゃう日もあるけど
笑ってタイ バカみたいでも それが私の得意技だ

そばにいてくれるみんなに 手を繋いでくれるみんなに
偶然揃ったみんなに お腹いっぱいありがとう

色んな曲を口ずさんでたら 風が私の肩を撫でる
立ち止まることもあきらめることも 全部無駄じゃないと


色んな色に心を広げて どんな未来も抱きしめよう
負けそうな時やダメそうな時は ちゃんとSOS

色んな人に迷惑かけても いつかひとつ役に立ちたい
恋をすることも孤立することも 全部エイエイオー!
夢を見ることも仕事することも 全部エイエイオー!

12月、救命救急編に続く!

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