コラム

2015年12月「必要とする者」

 毎年12月には当法人を挙げての忘年会が行なわれる。江別・北広島そして美唄、普段は各地に勤務しているスタッフが一堂に介するのだ。特に今年は美唄スタッフ全員で参加できたのは快挙である。
 ところで『忘年会』という言葉、この一年を忘れるための会という意味なのだろうが、実際には忘れることよりも憶えていることの方が大切である。もちろん今年の厄は今年中に払う、今年の問題を来年に持ち越さないという意味で嫌なことを忘れるのはよいことだ。しかし人間はあえて忘年会などしなくても、良かったことも悪かったことも勝手に忘れていく生き物だ。何をした・誰といたなどはメモでもしておけば記憶できるが、その時の気持ちを記憶に残すのは本当に難しい。僕がコラムという形で毎月文章を残すのも、少しでもそれに抗いたいからだと思う。
 ただ、忘れていた気持ちを思い出す方法もある。それは昔親しんだ作品に触れること。好きだった映画・小説・音楽・漫画…久しぶりに味わうと、完全ではないにせよ少しだけあの頃の気持ちに戻れたような気がしてくる。そんなわけで僕は時々急に昔のCDを引っ張り出して聴いたりしている。すると時には昔の気持ちを思い出すだけでなく、また別の感じ方もするから人間の心は面白い。
 最近聴いたのは中学の頃に夢中になって読んでいた漫画『MIND ASSASSIN』のドラマCD。主人公は生まれながらに他者の精神を破壊する超能力を持った青年医師・奥森。彼は本来暗殺のために開発されたその力を患者を救うために使おうとする。それによって織りなされる人間模様を描いた物語だ。まあ本作の魅力については他で語るとして、今年最後のコラムのテーマは「必要とされる」ということ。

 リヒターという登場人物がいる。彼は奥森とはまた違う超能力を持った暗殺者。リヒターは幼い頃に両親を殺害され、親戚からも敬遠されてレンツという悪党に引き取られる。そしてレンツに命令されるままに悪事に手を染め続けた。しかし実は彼の両親を襲った黒幕こそがレンツであり、全ては彼の超能力を利用するための計画であった。奥森はリヒターにそのことを教えるが、リヒターはそんなことはとっくに知っていたと返す。知っていて何故レンツに尽くしてきたのかと問う奥森に彼はこう答える…「誰からも必要とされずに生きていくより、あんな奴にでも必要とされて生きたかっただけだ」と。

 正直中学の頃はこのシーンについて、そんなバカなと思った。いくら人に必要とされたいからってそこまでするわけがない、と。しかし年齢を重ねた今、理解できてしまう自分がいる。こんなこともありうる…むしろ当然のことだと納得できる自分がいる。そう、「必要とされたい」という願望は人間にとって三大欲求と並ぶほどに強いものだと今は知っているからだ。
 もはやこれは本能と言ってもよいくらいに、人間は誰かに必要とされたいと願う。誰かの役に立ちたいと願う。安全な暮らしをすることよりも、長生きすることよりも、時には善悪さえも超越して人はそれを求めるのだ。
 診療で出会う多くの患者さんたちの心の中にもその強い願いがあることをいつも感じる。例え衣食住は保障されていたとしても、「必要とされたい」という欲求はそれだけでは満たされない。だから人間は「働く」という営みをするのだろうし、ビジネスではなくても何らかの形で誰かの役に立ちたいと思うのだろう。

 ただ厄介なことは、「周囲に求めてほしい自分」と「周囲から求められてしまう自分」は滅多に一致しないということだ。自分のやりたいことをしてそれが必要としてもらえるのなら一番よいのだが、世の中はそんなに甘くない。音楽が好きだからミュージシャンとして人の役に立ちたいと願っても、それを求めてもらえるとは限らないのだ。恥ずかしい話だが僕も若い頃そんな夢を語った時に母親から「あなたがそれを好きでやるのと、それが世の中に求められるかは別の問題」と言われたのをよく憶えている。まあ当時は腹も立ったが今となっては真理だと思う。
 つまり人間は幸福を選択しなければならない。誰からも求めてもらえないけど自分のやりたいことをやり続ける道。自己満足かもしれないがこれはこれでれっきとした幸福。あるいはやりたいことではないが周囲から求められることをするという道。人の役に立てるわけだからこれももちろん幸福。まあ極論ではあるが、どちらの幸福を求めるかはその人次第。厳しいけれど二兎追う者は一兎も得ず、好きなことをやってしかもそれで必要とされたいなんてのはちょっと高望みが過ぎるのが現実である。特にこのご時世では好きな仕事を選んでいたら就職だって大変。だからまあ仕事は仕事、好きなことは趣味で続ける…という着地点で折り合いをつける人がほとんどなのだろう。

 若干脱線したが、要するに人間にとって、「好きなことをやりたい」とタイマン張れるくらい「必要とされたい」という欲求は強いのだということ。だから時としてその気持ちが暴走し、モラルや法律を破ってまで人は人の役に立とうとするのだ。
 僕の仲にもその気持ちは確かにある。しかもかなり強いことを自覚している。だからやりたくない仕事でも求められるのならやろうと思うし、無理をしてでも求めてくれる人のニーズに応えたいと思う。
必要とする者  でもやはり暴走してはいけない。特に心の医療では、患者さんのニーズに何でも応えるというのは危険だ。優しくしてと言うから優しくする、出してほしいと言う薬を出す、手伝ってと言うから手伝うという姿勢はよくない。一般サービス業ならそれでよいかもしれないが精神科医としては失格だ。確かに患者さんの求めることに全て応えればさしあたり感謝は去れる。役に立ててこちらも嬉しい。でも双方喜んでいたとしても、それでは患者さんは回復しない。時には厳しさを持ってあえて支援をしないことが患者さんの力を引き出すからだ。当クリニックの理念にも掲げているように、一番大切なのは感謝されることではなく患者さんに回復してもらうことなのだから。いくら自分が必要とされたいからといってそのために暴走し、医療の目的を見失わないようにしなくては。

 リヒターの真意を知った奥森は言う…「私は自分の力を人に必要とされたい」と。そして本来暗殺のために作られたその超能力を彼のために使う。それによりリヒターは救われるが奥森のことは忘れてしまう。彼から感謝されたわけではないが彼の役には立てた…それにより奥森も満たされたのだと思う。精神科医が感じるべき喜びも、本来こういうものなのかもしれない。

 自分の心に問いかけてみる。やっぱり人に必要とされたい。きっと今は好きなことをやりたい気持ちよりもそちらの気持ちの方が強い。まあ時々は嫌になったり、割合で言ったら迷惑かけてる方が大きいかもしれないけど、それでも今はこの仕事をしていたいと思う。それにいつしか、それがやりたいことになっている気もするしね。
 それではまた来年!
 Eberybody needs to be needed.

(文:福場将太 写真:カヤコレ)

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