コラム

2017年1月「いとしのマイホーム ~続編in広島~」

いとしのマイホーム

 同じネタをまた使うとはこのコラムもそろそろネタ切れか?いやいやそんなことはないのだが、本来掲載予定だった原稿を押しのけて今回はあえて二年前と同じテーマで書いてみたい。
 なんと三年連続で正月を実家の広島で過ごしている。しかも今回は会う予定だった友人が風邪を引いて予定が空いてしまったため、丸三日ほぼ実家にいたという恐るべき寝正月だった。親父と相棒スペシャルを見て犯人を推理したり、遊びに来た妹夫婦の子供たちと触れ合ったり、亡き人たちの思い出を語り合ったり…とまあそんなふうに過ごしたわけだ。

 今回一番大きかったのは子供の頃に遊んでいた公園に行ってみたこと。名は『呉市中央公園』、公園といっても出入り口がいくつもあって外周を一回りするだけでも三十分はかかってしまうかなり広大な公園だ。シンボルはなんといっても公園の中心にそびえる巨大な噴水。それを囲むように舗装された散歩道が敷かれ、その周りにはピクニックもできる野原が広がっている。春にはピンク色の絨毯を敷くいくつもの桜、夏にはセミの声が鳴り止まない森、秋にはドングリやイチョウが落ちている小道、冬には氷が張る池。トーテムポールに裸身の女神像、なんだかよくわからないモニュメントまである。そして川を挟んだ向こうにはブランコやジャングルジムといった遊具のエリアもある。統一感があるかどうかは微妙だが、これだけの資源が身近にあるのは市民にとってとても有難いことである。
 最近は隣に市役所の新舎が建造されたため森や野原のスペースが削られモニュメントの位置も変わったりしていたが、それでも園内には三十年前の雰囲気がちゃんと残っていた。歩いていると思い出す。ここで友達と缶蹴りをしたな、この木に上って枝の間にお菓子を隠したな、ここで家族でバドミントンをして親父が骨折したな、この池にはアメンボがたくさんいたな…などなど。そういえば記録的な大雪が降った時、遊んでいる幼い僕の写真が街の新聞に載った。ビデオカメラを持ち出して親父と映画を撮影した。近所のマンションの屋上に上って初めて公園の全貌を見てその美しさに感動したりもした。きっとまだまだある、この公園にまつわる思い出は。

 両親、そして妹家族と園内をゆっくり回る。かつては母親におぶられていた妹が今は自分の娘を抱っこしている。かつては妹と遊んだすべり台で今は妹が自分の息子を遊ばせている…何だろう、この感慨は。時の流れの中で四季折々の風景を見せてくれる公園。そこでくり返されてきた命の連鎖、くり返されていく儚くて愛しい営み。新聞の写真で愛らしく雪遊びをしていた少年が、雪国に暮らすこんなオッサンになるのである。

いとしのマイホーム

 その後妹家族と別れ、母校の小学校に足を伸ばしてみた。あの頃の通学路には、幼い頃には意味がわからなかった名称の喫茶店、同級生が住んでいたアパート、駄菓子や文房具を売っていた店が並ぶ。僕の通った『呉市立五番町小学校』。別に番長が五人いたわけではなく、古い区画ではここが五番町だったのがその名の由来だ。五番街のマリーも特に関係ない。
 そのシンボルはツタカズラ。校舎の壁には甲子園球場のようにたくさんのツタが育っていた。まあ僕が通っていた頃はもう新校舎でツタカズラは片隅にしか残っていなかったけれど。懐かしい恩師の顔が浮かぶ。悪いことをした時はビンタされたりもしたけれど、心から感謝しております。真剣に殴ってくれて、怒ってくれて、本当にありがとうございました。
 五番町小学校の名物といえばなんてったってトランペット鼓隊。5年生になると生徒は全員トランペットやトロンボーンあるいは小太鼓・大太鼓などの中から楽器を一つ選択する。そして6年生の先輩から楽譜など使わず手と手で教えてもらい、自分が6年生になった時に一年間朝礼などで演奏するのだ。特に運動会で陣形を作りながら演奏するのは圧巻。ちなみに僕は中太鼓だったけど、音楽の楽しさやみんなで何かをすることの面白さを最初に味わったのはこのトランペット鼓隊かもしれない。

 残念ながら五番町小学校はもうない。何年も前に生徒数の減少とかで別の小学校と統合された。校舎もグラウンドもそのまま残っていたけれど、もうそこに生徒たちはいない。ここにトランペットや太鼓の音色が響くことはもうない。でも学校名を刻んだ表札はそのままで、今でも市民が多目的施設のように校舎を利用しているらしい。ここでもまた感慨が込み上げる。時の流れがもたらす変化は誕生だけではないのだと。
 家に戻ると妹の息子がおもちゃの太鼓を叩いている。お手本を見せる妹が刻んでいるのはトランペット鼓隊のレパートリー…そう、校歌のドラミング。ここにもまた思い出にツタカズラが絡まっている者がいたというわけだ。

 そんなこんなでのんびり過ごした正月を経て帰路に着く1月4日。文明の利器の進歩は凄まじく、朝8時に広島の空港にいた人間が午後1時には北海道の病院でカンファレンスに参加できるのであった。
 血の濃い間柄の人間と過ごすのがあまり得意ではない僕だけど、それでも家族や故郷に支えられて生きていられるのだと感じる。でもだからこそその暖かさに身を委ねず、普段はここで歩いていたいとも思う。今はもうないものもたくさんあるけれど、生きてきた年月は何よりも頼もしい自分のエネルギー源だから。

いとしのマイホーム

 最後に余談であるが、僕には就寝時の悪癖がある。今回妹の息子がテレビのヒーロー物ではしゃいでいるのを見て思った。ウルトラマンや怪獣の人形を手に持ってそれを闘わせて遊ぶ…さほど珍しいことではないだろう。僕も子供の頃は毎晩布団に入ってからその遊びに興じていた。
 広島の実家の押入れにはその頃の人形がたくさんある。そしてその一部は僕の大学進学と共に上京し、今は北海道の家のベッドの枕元に置かれているのだ。
 さすがに子供の頃のように単純に闘わせて遊ぶということはないが、時にはそれらを手に取って色々と物語を空想する。ちょっとセリフなんかも言ってみる。そしてそうこうしているうちに穏やかに睡眠へといざなわれるのだ。不眠解消法として学会に発表することはできないけれど、こんな所にも生きてきた痕跡が残っている。
 今回懐かしい公園やかつて小学校だった場所を訪ねてまた一つの物語が浮かんだ。日々の合間にこれを小説にしていくのが、愚かながら僕の趣味であり、心の安定法なのである。

 今年もどんな心に出会えるかがとても楽しみだ。

(文:福場将太 写真:カヤコレ)

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